戦争の時代
第200回 今の時代をどう見るか(5)
先週からの続きです。
オーストリア・ハプスブルグ王朝の力
オーストリア・ハプスブルグ家はウィーンを攻略、オスマントルコを破り、1699年ハンガリーを奪います。昨年、ヨーロッパに行った時、ウィーンの郊外の森の高台に、オスマントルコ軍との戦いでオーストリア軍を鼓舞して勝利に導いたとされる神父を祀った教会を訪問しました。ヨハネ・パウロ法王が訪問した記念のレリーフが壁面に飾られていたのをみましたが、当時のオスマントルコの侵攻は、ヨーロッパの国民のみならずカトリック教にとって宗教的にも大きな脅威だったことを物語ります。
ウエストファリア条約で主権国家システムは確立されましたが、民族と言われるものは、1789年フランス革命を待たなければなりません。ナポレオン戦争にはじまる諸国民の革命によって民族主義が台頭してきたと、私は見ます。
ナポレオンは、イギリスの征服を目論み、イギリスを海上封鎖する作戦をもってロシアに命令しましたが、ロシアはこれを拒否。怒り狂ったナポレオンは1812年ロシア遠征を試みたが、失敗して敗北。
ナポレオン失脚後、オーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ一世の時代になりました。このウィーン体制下で、地図上の区分けに集まった各国全権団、思惑ばかりでなかなか意見がまとまらない。パーティに明け暮れ「会議は踊る。されど進まず」と皮肉られた所以です。フランツ・ヨーゼフ一世はメンツのために各国代表団を接待したとのことです。この機にロシア皇帝はポーランド王を兼務しました。
ナポレオン全盛期には西南ドイツ諸国も支配下に置いていた神聖ローマ帝国は1806年完全に滅亡してしまいます。片や、ハプスブルグ王朝のオーストリア帝国は現ハンガリーを含む最大の多民族国家となります。なんと10民族が属していた大帝国でした。
ドイツは、1870年、普仏戦争に勝利してプロイセン国王をドイツの皇帝に戴く連邦国家、ドイツ帝国、または、帝政ドイツを成立させました。オーストリアやプロイセンをはじめ、旧神聖ローマ帝国を構成した35のドイツ諸侯国と4つの帝国自由都市をもって、オーストリア皇帝をその盟主とする新たな国家連合として「ドイツ連邦」を成立させたのです。1888年に即位したウイルヘルム2世はビスマルクを更迭し海軍を強化、帝国主義政策を着々と打ち出してきました。
片や、ハンガリーは苦難の末に民族の独立を果たした国です。1000年頃にハンガリー王国が成立しました。スラブの国です。元々ハンガリーはマジャル人(ハンガリー)の意識を持っており、12世紀から13世紀にはハンガリー王国の領域を最大にし、スロバキア、クロアチアなども領域としました。16世紀にオーストリア・ハプスブルグ家の支配下になり、1867年のアウスグライヒによりオーストリア・ハンガリー帝国の一翼を担う王国に位置づけられるほどになりましたが、常に自らの民族の独立を指向していました。
ハプスブルグ帝国の衰え、ナショナリズムの激化
ハプスブルグ家の力も衰えを示し始めます。
ハプスブルグ家が支配していた地域の民族が19世紀ナショナリズムの中、中東欧各国で自治独立を求めていくことになります。
1848年、フランスの2月革命の影響でハンガリーが蜂起、ある部分の自治を認められ、同じ1848年にはウィーンで3月革命が起きた契機に、ハンガリーのマジャル語の公用語化を主張したが、ロシアの援助で革命は鎮圧されました。二つの革命を総称して「諸国民の春」といいますが、ヨーロッパ各地で革命が起き、ウィーン体制の事実上の崩壊に突き進んでいきます。
1868年、オーストリア・ハンガリー二重帝国となります。オーストリアがドイツ連邦の名手の座から追われた時です。その後、オーストリア・ハンガリーは第一次世界大戦で敗れ、1918年ハンガリーはやっと独立します。チェコ、ユーゴスラビアも独立します。
ハプスブルグ帝国の衰えと共に中央アジアでも民族問題が発生してきました。
1877-78年、露土戦争後、ルーマニア、セルビア、モンテネグロがトルコから独立。1908年、オーストリアがボスニアヘルツェゴビアを併合、これにスラブ民族であるセルビア人住民が反発し、1914年の第一次世界大戦になります。直接のきっかけはオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がオーストリアのサラエボで暗殺されたことによるものです。
16世紀以来「ヨーロッパの穀倉地帯」と知られていたウクライナ。13世紀モンゴル帝国に滅ぼされた後は独自の国家を持たず、諸公はリトアニア大公国やポーランド王国に属していました。その後、17世紀にはロシア帝国の支配下に入るが、1999年ソ連崩壊とともに独立。2010年には 親ロシアだったヤヌコビッチ大統領が行方不明。2014年、クリミヤをロシアが編入、グガンスク州を実効支配してしまいました。ガリツィア地方は元ヤゲウ王朝ポーランドの領土でしたが、オーストリア・ハンガリーのハプスブルグ領になり1918年ポーランド領となり、更に、第二次大戦でこの後、ソ連領ウクライナと統合された経緯があります。
汎スラブ対汎ゲルマンの対立
第一次世界大戦はロシアをリーダーとする汎スラブ主義対ドイツ、オーストリアの汎ゲルマン主義の対立、ナショナリズムの対立とみます。
ヨーロッパや世界の細分割をもくろんだドイツ・オーストリア・ブロックに第一次世界大戦の原因があると、ロシアでは相手を責め、一方そのロシア自体は、フランスやドイツを粉砕して、ロシアのバルト海沿岸市域とポーランド諸国、フランスのアフリカ植民地の一部を併合し、トルコや中近東に強力な地盤を築くという目論見であったとされており、他方、オーストリア・ハンガリーはバルカン諸国を支配しようとしたものとの見方もあるほどです。各国が牙をむき戦う古い帝国主義の時代です。
この後も、ナショナリズムの対立は世界各地で起きました。民族が帝国主義の支配から脱出する形で起きた場合が多いのですが、最近の新しい帝国主義の下では武器自体が見えにくい経済力を推進した作戦で行われるので、そこにいる国民はナショナリズムの旗印がつかめにくい。気が付いた時には時すでに遅しで、民族の誇りが完全に封じ込められてしまう危険性を孕んでいます。
全部で5回に渡り資本主義の変容を、帝国主義とナショナリズムの関係で述べてきました。特に、今が新たな資本主義の時代、新たな帝国主義の時代に入ってきたとの私の認識を共有していただいた方々には、過去の永い「戦争の時代」を今後如何に回避するか、日本国民が果たすべき役割は何かのヒントになれば幸いです。
ありがとうございました。
第199回 今の時代をどう見るか(4)
先週の続きです。
4. 新たなナショナリズムの勃興の時代とみます。
これは本来宗教との絡みを見なければなりませんが、その分野には私は門外漢なので、今回はナショナリズム中心にのみ焦点を当てることをご理解ください。
ナショナリズムは民族主義と密接不可分です。しかし、民族というものをどこまで遡るか、単なる歴史的文化的な共通点をもった出身地を意味するのか、なかなか理解し難いものです。最近は、政治の権力者による政治的指導力発揮の道具として、これが利用されており、ますます混沌としています。
また最近の事象として、国家や民族を超えたネットワークが生まれつつある現象が現実に起きています。EUしかり、イスラム国しかりです。この兆候をナショナリズムとの関係ではどう見るか、裏でナショナリズムの発生を認識しつつ、その勃発を防ぐためにこのような集団になっているとみるか、ますます複雑になっています
フランス革命以前は、体をなしていない国家
大昔は別として、1648年の「ウエストファリア条約」以後に主権国家体制が確立し、「名ばかりの国家」から実質を伴う国家が成立して、国民や民族の意識が高まったと理解します。しかも、この頃の大きな民族問題はほとんど中東欧の問題でした。この地域でナショナリズムの機運が現実の勃発までつながったのです。間違いが無いように沢山の年代を付記しましたが、ナショナリズムの関係で私が個人的に注目する年代は、1339年、1438年、1516年、1648年、1789年、1870年、1868年、1914年です。これをもう少し、詳細に述べると、
1789年のフランス革命以前、ナショナリズムはどうだったか。ナショナリズムは、神聖ローマ帝国とハプスブルグ王朝の動きに焦点を置くと、それが勃興した経緯が非常に浮彫になります。
1328年、フランスがカペー王朝を継続してから王位継承問題に発展し、イギリスとフランスの100年戦争(英仏戦争)(1339-1453年)後、各国で中央集権化が進みますが、中東欧を含む15世紀末頃の神聖ローマ帝国(ドイツ)は混とんとしていました。ヨーロッパの西から東まで国名があっても「名ばかりの国家」だったと言われています。
ハプスブルグ家の下での神聖ローマ帝国
1273年、スイスの弱小領主のハプスブルグ家が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれましたが、領邦団が御しやすいとしてハプスブルグ家を選んだと言われるのは有名な話です。1438年以降もこの地域は沢山の領邦が分裂状態。ハプスブルグ家は世襲と結婚政策で、1516年のカール一世の時代になって、中欧のほとんどを手に入れました。選任時の領邦団の意に反して、瓢箪から駒でハプスブルグ家が力を持ってきました。
ポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアに分割され、ウクライナ問題で注目を浴びているガリツィア地方は、この時オーストリア領となりました。
ウエストファリア条約で主権国家誕生、神聖ローマ帝国は有名無実化
1618年から1648年の30年戦争が始まり,欧州は戦乱に明け暮れます。オーストリア・ハプスブルグ領のボヘミヤ地方のプロテスタントがカトリック教を強制されることに反対、1648年に有名な「ウエストファリア条約」でカルバン派(プロテスタント)の信仰が認められることになります。1517年のマルチン・ルターによる宗教改革以後、信仰の自由に関する初めての大きな事件です。
ナショナリズの観点からみれば、これは歴史的な条約です。それぞれの国は内政権、外交権を有する主権国家となる糸口だからです。片や、この条約後、神聖ローマ帝国は有名無実化し、ドイツの内部は、主権を持つ領邦国家が分裂する状態になってしまいました。
この頃を中世と近代の境と言う識者もいますが、この後、プロイセンが力をつけてきます。
第198回 今の時代をどう見るか(3)
前号の続きです。
新自由主義の時代へ
ところが、ソ連が1991年に崩壊してから、アメリカの覇権が確立、世界の問題の面倒をアメリカ主導でみる時代がきました。
これにより、「新自由主義」が完全に主導権を握る形になりました。資本主義が、今度は新自由主義の形に変容をしてきたことを物語ります。サッチャー首相、レーガン大統領、中曽根首相の時代で、この推進により社会に巨大な格差が生じることとなった契機をつくった時代と称する識者もいます。
資本主義は、最近までこの新自由主義と位置付けされるのではないでしょうか。
今は、・・・の時代
今は、この新自由主義がおかしくなってきました。これが崩壊し、アメリカの力が弱くなり多極化時代に入る。これが新しい帝国主義やナショナリズムと連動して、資本主義が更に危なく変容する新しい時代に突入しつつあるという大雑把な把握が時代に対する私の考えです。
3.新たな帝国主義の時代とみます。
このように資本主義が新たな資本主義の時代に変質してきたことは、帝国主義の変遷、特に、今が新たな帝国主義の時代に突入してきた時代だという認識と、大いに関係があると考えます。
先ほどの項で述べた通り、帝国主義の方向性は、
1.グローバル化による多国籍企業による資本の集積と金融資本の結びつき、
2.安価な原料や労働力の確保を求めて資本込みのインフラ輸出を指向するため、
3.国家機能をさらに強化する傾向が出てくることです。
これが古い帝国主義のやり方で、今もこれを志向している国々も見られますが、帝国主義の方向性は変えず新しい手法で帝国主義的アプローチをする、新たな段階を迎えつつあると認識します。1989年のベルリン崩壊から2014年のウクライナなどでの問題を見ると、旧い手法と新しい方法の混在がみられる新たな帝国主義の時代にはいっていると見ます。
新しい帝国主義では、経済封鎖の手段を使い、相手が経済的打撃を蒙る。経済的締め付けを新たな武器として使う方法です。
旧い帝国主義では植民地を求めたのに新しい帝国主義では、求めてこない。外部からの搾取や収奪も相手国が弱まるのを待ってつけ込むスタイルとなります。世界各地でこの手法がみられています。
最近のケースですと、2008年の北京五輪開幕の陰で、ロシアがグルジアの自治区域で南オセチアとアブハジアの独立を一転して承認し、ロシアの緩衝地帯を作りました。
2011年、アメリカのオバマ大統領も南スーダンを独立させました。対中国の石油資源対策のためです。2012年にミャンマーと関係を改善し親米としましたが、これも中国の生命線であるインド洋に出るラインを止める、イランからパイプラインも引けないようにしたものと、殆どの識者はみています。アメリカが弱まった隙に、中国も海上で岩礁を埋め立て、権益を増そうとしています。
日本も、突然、法解釈を変更して武器輸出三原則を緩和しました。オースオラリヤにディーゼル潜水艦を輸出可能としました。想定する国に、あからさまでない経済的方法で影響力を行使するためです。新しい帝国主義的手法を取っています。
第197回 今の時代をどう見るか(2)
先週からの続きです。
重商主義時代から植民地主義の時代へ
17世紀頃に、イギリスが植民地化していたインドで、東インド会社が出来ました。インドからキャラコと言うインド産の平織綿布が輸入されるようになり、イギリスは安価なキャラコの輸入品に対抗するために知恵を働かせました。綿織物を国内で安く大量に作るという動機から紡織機を開発して世界の工場となり、蒸気機関車を鉄道に走らせ大量の出荷を可能としました。東インド会社など国家が資本を独占する資本主義、いわゆる独占資本主義の時代に突入したのです。
繁栄を誇っていたイギリス、ヨーロッパの他の国々は競って植民地化の策を取り安価な資源を求めて競い合いが始まり、小競り合いが絶えない時代になりました。
これ以前の重商主義の時代には、スペインを代表に、金銀などを海外から持ち帰ることに専念しました。この資本主義が最初に変容を遂げるために、片方で昔の概念での自由な貿易を主張しながら、自国内では差額主義を貫き外国貿易で儲ける方法をとったのです。最初にこの重商主義を捨てたのはイギリスです。規制自体がかえって邪魔になり、一方的に自由貿易の教義と植民地主義を押し進めていきました。
帝国主義時代へ
1873年から1879年にかけて、欧米が大不況と発生しました。オーストリア・ハンガリー二重帝国の首都ウィーンで財政破たんが起こり、これがヨーロッパと北米の大半が大不況に見舞われるほどまでになりました。実は、この頃から独占資本主義から帝国主義に変貌し、産業構造が繊維産業から重工業化へと変わってきたのですが、イギリスよりドイツが成長してきたことも関係します。
重化学工業の担い手は労働力です。しかし、すぐに購入出来なのが労働力。賃金が高騰してしまい生産しても儲からない、恐慌になる。回避策は戦争という安易な道へ進んでしまいます。
1870年の普仏戦争、プロイセン(普)対フランス(仏)の戦争ですが、プロイセン以外のドイツ諸国も加わったので、ある意味で独仏戦争の状態でした。スペインの王位継承問題に端を発した両国の対立でしたが、ナポレオン時代のフランスに復讐することでドイツの主導権を取ろうとしたプロイセンのビスマルクが、ナポレオン3世を挑発して起こしたとも言われています。ここにプロイセンがナポレオン率いるフランス帝国を破り、帝政ドイツが成立してから1917年のロシア革命まで、各国の帝国主義が角を突き合わせて最後は戦争をする帝国主義という「戦争の時代」になってしまいます。
時代を経て、20世紀、アメリカは朝鮮戦争やベトナムで戦争という形で需要を喚起して経済的には乗り切った感があります。ある意味での公共事業をして発展、恐慌を回避したことになりますが、未だ帝国主義的な発想が続いていることになります。
マルクスの言う純粋な資本主義では、国家の介入は避けますが、アメリカの例で見られる通り、帝国主義では、逆に市場に介入をしてきました。ここに大きな変容が発生し、資本主義が新たな段階を迎えてきました。
帝国主義では市場に介入して、資本の集積と集中により寡占(独占)が出現し、産業資本と金融資本が結びついて、金融資本が優位となる。安い労働力、土地、原料を利用し、インフラ等を資本込みで輸出をします。多国籍企業が形成され、国境の制約から生じる資本間の軋轢を回避する策と、主要国による勢力圏の分割が完了する形を取るとの特徴がある本に記載されていましたが、正鵠を射ています。
冷戦下の資本主義時代へ
第一次世界大戦中の1917年にレーニンの指導でロシア革命が起き、これから資本主義が冷戦下の資本主義時代を迎えることとなりました。資本主義は自己を守るために福祉施策や失業対策という公共事業を実施してきました。これが1950年代から1970年台です。「黄金の時代」と呼ばれ資本主義が成長を謳歌した時代です。資本主義が生き延びるために変容してきました。
第196回 今の時代をどう見るか(1)
今の時代をどう見るかは大変難しいです。とりわけどこの視点から今の時代を捉えるかによって、時代が様々な映り方をするからです。個人的には、今、(1)資本主義が変容を余儀なくされている。(2)世界の主要国が古い帝国主義的傾向と新しい帝国主義的傾向を混在させている危険な時代である、と考えます。この中で、我々は日本国民がどう生き延びるかの知恵を捜さなければならない。この視点で時代を捉えてみます。
1.資本主義の本質
昔、マルクスの『資本論』の読破にトライしましたが、難解で内容を本当に把握したかは疑問な所もあります。その中で今も頭の隅に残っていることは、資本主義が行き着くところ、すなわち、国家が全く市場の干渉をしない純粋な資本主義の本質が説かれていたことです。
この本質から見て時代がどう映るかの点に着眼します。
資本主義の萌芽
マルクスが資本主義の本質について主張しているのは、
第一に、「労働力の商品化」です。
主張の良し悪しの判断は別として、労働力の商品化が成立するためには、当時のヨーロッパの農民の暮らしにおいて、彼らを身分や土地の束縛から解放し、どこでも自由に移動でき、土地と生産手段からの自由の確保をすることが前提となります。これは国家が土地などを所有する一部の国ではできない相談ですが、世界中の自由主義圏では昔も今も可能なことです。
資本主義の萌芽は15~16世紀に、まずイギリスで起きたのはご存じの通りです。学校で学んだ「囲い込み(enclosure)」が契機です。
理論的にイギリスから起きる必然性があったか否かは不明ですが、この頃地球が寒冷期となり、誰もが毛織物が欲しかったことで、その需要が旺盛となりました。この需要に応えるために領主や地主が農民を追い出し、沢山の羊を飼うため、領地の周囲を生垣や塀で囲い込んで(enclosure)牧場を作りました。結果、追い出された農民は、土地から解放され、都市に移動し毛織物等工場で雇用されるという皮肉なことになる。これが資本主義の萌芽の背景の一つです。
第二に、対価を賃金で払うことです。
労働力という商品を提供した以上、その対価をもらわなければなりません。対価は賃金と呼ばれ、この賃金は再生産に必要な額のみとしたことです。本人の体力の維持のための、あるいは家族を維持するため必要最小限の金額です。すなわち賃金は、再生産力を維持できるギリギリのための額となるという趣旨が『資本論』に書かれていました。しかも、地代としてではなく労働力の対価として賃金で払うというものです。
この二つの主張を現時点で見ると、この傾向が今、ますます鋭敏化しています。人材を商品とみる、代替可能とみる傾向が強いこと、再生産可能なギリギリの賃金での生活を資本が雇用に強いていること、これら二つの資本主義の本質は今も貫かれています。
過去から現代に至るまでに、底辺の本質部分は変わらずとも、上層部分の在り様が大きな変容を遂げてきているとみます。
2.資本主義の本質的内容が貫かれつつも、変質している時代と見ます
ところが、「囲い込み(enclosure)」のみでは、資本主義は力不足です。我々が学んだ産業革命と同期を取らなければなりませんでした。資本主義への道を耕すには、技術革新による新しい機械で大量生産ができる因子が働く必要がありました。産業革命です。
資本主義は、以下に整理するように変容を遂げて生き延びていることが分かります。
(1)萌芽期、(2)重商主義の時代、(3)植民地主義の時代、(4)独占資本主義の時代、(5)旧い帝国主義の時代、(6)新自由主義の時代、そして(7)新たな帝国主義の時代、そして(8)今の時代、と変容を遂げてきています。
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