宗教、気候
第166回 ヨーロッパの精神性の概観(3)
前回からの続きです。
4.支配、被支配の明確な位置づけ
ヨーロッパの人々は動物を愛護する一方、人間と動物の間に一線を画し、人間をあらゆるものの上位に起きます。我々日本人が自然や動物と一体感を持つ発想とは明らかに違います。
私の知る限り、キリスト教はじめヨーロッパの宗教は、ヘブライ人の民族宗教たるユダヤ教から発展したものです。ヘブライ人も人間と動物の間に一線を画したそうです。旧約聖書では、人間は「神の似姿」で動物を殺して食べる権利があることが、はっきり認められていると言われているほどだからです。
牛、馬、羊、豚などを平気で食べる一方で、彼らは動物愛護運動に非常に熱心で、日本人は動物に残酷であると非難するほどです。魚も一緒です。イルカや鯨の捕獲について、和歌山の海岸での捕獲方法や、調査船での鯨捕獲が批判の的にされているのは、「残酷」の意味が違うからです。イルカの捕獲方法が不必要な苦痛を与えているとしか、彼らは見ないからです。従って、不必要な苦痛を与えない限り、彼らにとって動物を殺すこと自体残酷ではないかもしれません。家畜も大切に育てた上で食用にします。
今回の旅行で私が感じたことは、人間と動物の関係の引き直しとして、人間同士の関係でした。上記の通り動物より人間の上位を強調する人間中心の考えがヨーロッパ思想の根底あることでした。
ただし、ここでいう人間とは、当時キリスト教のヨーロッパ人に、更に極論すれば、昔はカトリックのキリスト教に限られそれに非ざる人などは含まれないのではないかということです。
この人間中心主義の考え方は、人間を類型化させる危険をはらんでいます。カトリック教徒の人間とそれ以外の人間に分ける論理を生み出す温床にもなるのです。動物や非ヨーロッパ人などを順次疎外していく強烈な論理は、最後に本当の人間として残すのは、少数の支配階級のみという極端な論理になります。
支配者と被支配者に分けられ、ここに曖昧さは在りません。世界史の中で数々の残虐な結果を刻むことにもなりました。
この論理に比較して、いろいろなものとの調和を重んじる日本では、動物との支配・被支配の関係のみならず、人間同士でもそれがヨーロッパほどは、はっきりしません。ここに大きな違いがあります。
また、支配階級の締める割合も違います。
日本の場合、徳川時代、支配階級である武士(下級武士で支配階級に値しない人も含む)の総人口に占める割合は5%前後と言われています。フランスでは、1789年のフランス革命のときの僧侶と貴族の比率はそれの10分の1だったそうです。一桁違います。
ヨーロッパの支配階級が広大な宮殿と庭園を持つことで貧しい人々の恨みをかい、民衆が爆発するのは、いとも自然なことだったのではないかと、宮殿や庭園を見学しながら私は感じました。
権力の差とは言え、あれほどの贅沢は普通の人間には許されない、革命が起きるのも当然と感じた次第です。
蛇足ですが、もし、私が中世のフスの時代に生まれていたならば、私も宗教改革の先頭を切っていたかもしれないと思います。時の宗教の矛盾があったら、約700年前、私も体をはって抵抗したのではないかと、フスの大きな像を見ながら思いを巡らせました。今、「1人1票国民会議」の運動で頑張っておられる升永先生はじめ諸先生の活動には、宗教と政治の違い、時代背景の違いがありますが、まさに頭が下がる思いです。
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