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天地返し

第260回 苦悩した凄いリーダーの業績と言葉(2)

Posted on 2017-10-26

前回からの続きです。

 

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

 西暦121年ローマに生まれ、161年第16代のローマ帝国の皇帝に即位。180年に伝染病で逝去した人物です。享年58才だったということになります。

 

賢帝の治世

 実は、彼の治世は多難続きでした。

 パルティアとの抗争により軍人が天然痘をローマに持ち込み、それが蔓延、ゲルマン人の侵入など多くの対外的問題を抱える一方、国内ではキリスト教勢力の拡大、食糧難による飢餓、反乱の発生等、ローマは難題山積みでした。

 アントニヌスは内憂外患に陥るローマ帝国の安定化に努めた皇帝で五賢帝の時代を築いたほどの人です。一方で後継者指名に禍根を残し賢帝も彼の治世をもって終了したので、皇帝としての評価が分かれるところもあります。

 皇帝として仁の政治を敷き国民から信頼と愛情豊かなサポートを集めて慕われた皇帝と言われ、彼の死後1世紀にも渡りローマの多くの家では守護神の一人として彼を祀ったという伝説的な皇帝です。

 政治的な業績はいろいろなところで紹介されていますので、ここでは割愛させていただき、読書と瞑想にふけることを好んだ彼が公務の傍ら、心に浮かんだ自らの考え、思想や自省自戒の言葉などを断片的に書き留めたものの中から、私が過去経営していた時や現在も、個人的に参考にしている言葉を数点以下に紹介します。

 

「自省録」からのヒント

 その言葉は「自省録」として世の中に伝わっており、彼が精通していたストア哲学が思想背景にあります。イギリスを代表する哲学者、J・S・ミルは「自省録」を「古典精神のもっとも高い倫理的産物」と高く評価したと、ある書物に記載してあるほどのものです。2000年も前にこのような人が書き残した言葉の奥には驚きの一語に尽きる内容を秘めています。

 私自身、約20年の経営の折々に自分が経営上大事だと思っていたことを『折々の言葉』に書き留めておりました。今思うに少なからず皇帝の言葉に影響され、類似した内容を書き留めていた部分があることを喜んでいます。

・「何人にでくわそうとも、直ちに自問せよ。この人間は、善悪に関していかなる信念をもっているか」

 私の言葉で言えば、「誠実に生きる人か否かを見極める」ことに通じています。信念なく誠実でない人は、善悪の判断や行動に私欲が出すぎるのではないでしょうか。経営の過程で遭遇したあるディールで私もこのことを知ることになりました。

 これに悖るような行動を選択した幹部社員もいました。その人の後半生が、胸に刺さった刺を気にしながらの人生になっているのではないかと、私は気にしています。

 

・「目標に向かってまっしぐらに走り、わき見をするな。生きている人間にとっても、賞賛とはなんであろう。せいぜい何かの便宜になるくらいが関の山だ。」

 「隣の芝生の青さや他人からの評価を気にするな」と、私は言っています。脇見をしたり、周囲の評価を気にしながら経営をするようでは、経営の「軸」がぶれて立派な経営が出来なくなることを、経営指導時にアドバイスしています。

 

「人が失いうるものは、現在だけである。我々は急がなくてはならない。それは、単に時々刻々死に近づくからだけではなく、物事に対する洞察力や注意力が、死ぬ前に既に働かなくなっているからであう。」

 「今を大事に」、「今を一所懸命に生き抜く」と、言い換えています。今を生き抜く過程で、経営の洞察力や先見性が磨かれていくのではないでしょうか?

 

・「よし君が怒って破裂したところで、彼らは少しも遠慮せずに同じことをやり続けることであろう。」

 リーダーとして我慢も大切です。部下の大きな失策に激怒して叱責しても、余り生産的ではないことが多いです。それよりも、彼が二度と同じ過ちを犯さないようにリーダーは導かなければならないと諭しています。但し、金銭に関わる過ちを犯す人は、その人のクセに根差すところが多いので、その指導が結構難しいことを私は経営上体験しました。

 

・「いかなるところと言えども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠れ家を見出すことはできないだろう。中略。であるから、絶えずこの隠れ家を自分に備えてやり、元気を回復せよ。そして完結であって本質的である心情を用意しておくが良い」

 自らの心の持ち方、精神的安定性がないと立派な経営ができないことを、身をもって体験しました。特に、重要な経営判断の時にしかり。

 

・「君の不幸は…何が不幸であるかについて判断を下す君の能力の中にある。」

 自分自身の責任がどこにあるかを常に自省することは経営者ならずともビジネスマンに全て共通することではないでしょうか。

 

私自身も他の凄い人の言葉に加えて、アントニヌス皇帝の言葉も経営上の自省として大いに参考にしていました。ご参考になりましたでしょうか。

 

第259回 苦悩した凄いリーダーの業績と言葉(1)

Posted on 2017-10-19

 世の中には凄い人がいたもんだ、とつくづく感激することがあります。

 今回は全く違う分野の二人を紹介します。というより、自分自身が、このような凄い人の業績や言葉を爪の垢を煎じてでも飲みたい、経営や人生の参考にしたいと思っているからです。

 

伊奈(半左エ門)忠順(タダノブ)という人物

 ご存知の方もいるかと思います。彼の働きぶりには本当に感動しました。世の中に彼のような人物が沢山いたかもしれませんが、今回はこの代官を取り上げます。

 徳川幕府、綱吉将軍の時代の末期、江戸では元禄文化を謳歌していたこの時代に、彼は御殿場付近の御厨地方の代官でした。

 実は、大分前に新田次郎氏の『怒る富士』(1974年出版)を読んだ記憶があります。新田次郎氏は富士山の気象所に勤務した経験を持ち、地元の人々から伊奈忠順のことを聴いていたので、この小説に著したのではないかと推測します。しかし、若気の至り、当時はこの本にそれほど感銘を受けていなかったようで、余り記憶に残っていませんでした。

 ところがこの9月、テレビのある番組で彼のことが紹介され改めて彼の偉業に気づいた次第です。個人的には富士小山の付近でゴルフをすることが多かったので、余計親近感を持って彼のことを調べました。

 伊奈家は代々土木技術、測量術、算術に秀でた一家で、玉川上水の工事を担当したのも祖先の伊奈忠治(3代目)、忠真(4代目)などで、忠順はその子孫で7代目にあたるとのことです。

 忠順(通称、半左エ門)の苦難と賞賛の仕事ぶりは、宝永4年(1707年)に宝永の大地震に続く富士山の大噴火(800年の延歴の大噴火、864年の貞観の大噴火に続く富士山の3大噴火の一つ)による大災害が浮き彫りにすることになります。彼自身の人生でも全く想定外だったのかもしれません。

 

富士山の大噴火

 宝永4年10月28日の富士山の大噴火は、直前の大地震に続くものです。今のスケールでは、地震のマグニチュードは8.6~8.7という凄まじいものだったようで、その震源は最近話題の南海トラフだそうです。この大噴火の時、富士山の南東の地域は小田原藩に属していました。

 それなのに、何故、幕府が登場し、半左エ門を復旧工事と被災者の救済のために現地に代官として派遣したのでしょうか?

 大噴火の数年前から日本列島の地殻が大きく変動していたようで、江戸幕府は度重なる天災で財政難の極み、幕府の勘定奉行(今の大蔵大臣)萩原重秀は歳出の削減を図っていた時期でした。

 

御厨地方の大被害に対応できない小田原藩は、領地を幕府に返却

 小田原藩の10万石の領地の6割にあたる駿東郡・足柄下郡・上群が噴火による火山灰で埋まってしまいました。小田原藩は自力での復興は無理と判断し、この領地を幕府に返上してしまいました。

 そこで幕府が直接指揮を執ることになります。幕府は半左エ門の過去の実績を評価し、彼に現地派遣の白羽が立ったのだと、私は理解します。

 半左エ門の運命が大きく変わる契機となった時期です。

 富士スピードウェイ近くに火山灰堆積の保存現場があります。スコリアと呼ばれる軽石の堆積層は約3メートルで、ゴルフの帰りに保存現場を立ち寄り見学した時には、私も本当にびっくりしました。

 100キロ先の江戸でも6センチほどの灰が積もり、風が東方面に吹いたために千葉でも灰が相当積もったとのことです。落花生しか耕作できなかった痩せた土地になったのも、この降灰が影響しています。未確認ですが、江戸にいた新井白石が『折りたく柴の記』に真っ黒な空、雷、降灰のことを、恐怖心を交えて記載していると言われているほどです。

 富士山の付近でのこの災害に対して財政難の幕府は何もできず、その状況は目を覆うばかりであったとテレビで報道されていました。もっとも被害の大きかった駿東郡足柄御厨地方へも幕府の支援は行われず、59の村が「亡所」とされ放棄されてしまうほどでした。沢山の農民が餓死したと言われています。

 噴火での死者は少なく、噴出した溶岩石による火災や降灰、洪水などによるその後の食糧不足で餓死者が2万人出たと言われています。

 東海道の大動脈を酒匂川が横切っています。富士山の噴火で、また噴火の灰が大量に酒匂川などの川に流れ込み水位上昇による堤防が決壊し、水没する村が続出した状態でした。

 

義援金の流用

 早期復興を目指した治水工事のためには、カネと人手が必要となります。大量の木材も当時は必要です。

 このため幕府は被災地を幕府領化した後、諸国に義援金を要請、復興資金として各大名から強制的に義援金を集め復旧に着手しました。

 ところが半左エ門が推薦した地元の建設業者を幕府は使わず、裏取引で江戸の業者のみが入札獲得する状況。また、悪徳商人が木材を供給不足状態に操作し大金を手に入れる。今もどこかで耳にする話が当時からあったようです。

 義援金の一部は江戸城の大奥の改修工事などに流用されたり、29年ぶりに日本にやってくる朝鮮通信史の使節団の接待などに60万両の金を使われたりし(しかも皮肉にも半左エ門が接待担当に任命された)、伊奈が治める御厨地域には義援金が回ってこないという状態でした。

 義援金の半分しか復興に使われなかったと言われるほどです。

 一部の大名は復興を権力闘争に利用したため半左エ門がどんなに頑張っても復興は遅々として進まず、1711年、すなわち宝永大噴火から4年過ぎて被災地への関心が下がる一方になってしまいました。前年にはどうにか1万両単位の支援があったものも、その後滞りがちになる。半左エ門自身も6千両私財を投入しても焼け石に水。

 この頃幕府の勘定奉行がすべての権限を握り、そのポジションに後に新井白石により弾劾され失脚することになる荻原重秀が就いていました。江戸の三大改革の一つ、徳川吉宗の享保の改革が行われる少し前の時代です。

 

我慢の限界で半左エ門の取った行動

 それでも半左エ門は我慢をして奉行として職務に努力していましたが、現場視察で農民の困窮を目の当たりにすると、これまでの幕府の路線に憤りを覚え、遂に江戸幕府の荻原重秀に陳情するに至りました。このこと自体が当時としては異例中の異例。

 それでも幕府が動かないと知るや、今度は伊奈家の取りつぶしを覚悟で救い米と称した緊急用の幕府の米倉(小田原6万石で駿府に倉があった)を開けさせ、農民への施しをしたと言われています。農民の一部は餓死せず冬を越す事が出来た。

 幕府側に立つのでなく、良心に従って農民側に立った、しかも違法に近い行動を、半左エ門がとったことになります。

 この行為を幕府の目付にとがめられて、最後は自害(病死の節もあり)する羽目になりました。御厨地方を含む山北や小山では灰が積もって農業が不可能になっていましたが、彼の知恵で軽石の山の土を「天地返し」の作業で元の土に戻すことで正常に農業をできるようになったと言い伝えられています。

 彼の遺徳をしのび小山町須走に「伊奈神社」が建立されました。

 後日談ですが、資金を工面し半左エ門などが復興に尽力して20年も経っても御厨地方は復興できない状態が続きました。その後、大岡越前守忠相に見出された田中休愚が徳川幕府の命を受け、享保8年(1723年)から御厨地方の本格的復興にあたって今日に至ったとのことです。