国民、国家のリーダー、国家権力、税金の配分
国家とは何かを考える(2)
前回の続きです。
国家権力と官僚と税金
我々が教科書で学んだ通りであれば、太古の昔には、人間が誰の指示もなくある場所で生活していたはずです。ところが、ギリシャやアテネを中心とした都市国家が形成されてから、国家が国民を束ね、国家としての機能を果たすようになってきました。国家にはいろいろな機能があると思います。
どこかの首相がよく口にする言葉、すなわち、「国民の生命と財産を守る警察機能」、「他の国家からの脅威から守る安全保障のための軍事機能」、「社会保障を充実するための所得再分配機能」などです。全くその通りで、どの国家機能をとってもそれぞれ大事に見えます。しかし、これらの機能が組織と結びついて権力となり、膨大な国家権力が構成された時点から問題が複雑になります。
この国家機能を運営する役割を果たすのが官僚です。果たして彼らが国民のためにという高邁な思想をもって仕事をしているのか否か、いろいろな事件がある度に私は考えさせられます。権力を維持するための財源を、我々国民が支払う税金の収入等でカバーしているにもかかわらず、何故官僚がこんなことをするのだろうと思うことが多数発生しています。
もう少し直截に、自分の税金が特定の官僚のA氏を喰わせていると考えてみると、官僚のA氏の働き振りに無関心ではおれないはず。ところが、マクロで国民という言葉で集約され、マクロで官僚と称するとこの感じが薄れ、税金の配分と官僚のサービスの関係が分離されてしまうから不思議です。国家権力や官僚組織にまったく無頓着になりやすいのです。 A氏が国家や国民にしっかりサービスをしているかを監視する機能が、個人として働きにくくなってしまいます。
国家の側からすると税金の徴収、この管理のために当然官僚が必要であるという大義名分があります。自分の給料を払ってくれる誰かが必要なことも事実です。しかし、国民の側からすると、先に述べたように自分が特定のAさんという官僚の給料を払っているという厳然たる事実を直視すると、国民と国家の関係で、その人はAさんに違う感情を抱くと思います。勿論そういった感覚が出ないように官僚は上手くやっていますが、その人は国家や地方自治体から、我々が支払う税金に相当するサービスを受けていないと感じたり、その事業は全く無駄ではないかと肌感覚で感じるからではないでしょうか。
無駄と思える税金の配分
長崎県、有明湾諫早の干拓事業に関係した排水門についての最近の判決。長崎地裁は「当面そのままに」。また、佐賀地裁の一審判決を支持した福岡高裁は「5年間排水門開放」の判決。
この、門を開けない、開けるについて、裁判所によって異なる判断が下されています。しかしいずれにしても、判決を履行しない場合の制裁金に、間接的に国民の税金が充当されることになります。自然な海流に任せ、これまでに排水門の壁など人工的なものを造ることに、この予算を配分していなければ国民の税金が浪費されなかっただろうに、とも思いたくなります。政治権力や官僚の誰がこんな無駄なことをしてくれたのか。
島根県と鳥取県にまたがる宍道湖・中海の干拓淡水化のために、1963年から39年間行った、海水をせき止め干拓して宍道湖を淡水化する事業も、先の例とほぼ似たものです。海流の流入により、沢山の貝類が育っていた汽水湖の宍道湖では、せき止めの護岸工事でヤマトシジミがほぼ絶滅するなどの水質汚染を招き、自然環境が破壊されてしまいました。
この工事は2002年に中止されましたが、これまで国民の税金を851億円も投入した挙句の中断。この干拓事業をやる意味がどこにあったのでしょうか。政治権力や官僚の誰が、この工事に予算を配分してこんな無駄なことをしてくれたのか。この明確な失敗の責任を誰が負ったのか全く不明でうやむやの状態。国家権力の在りようを模範的に示している悪しき事例ではないでしょうか。
違憲状態という不思議
一人一票の投票の価値に照らして、先の国政選挙が「違憲状態」との最高裁判決。
この判決が出ているのに、違憲(状態)で当選した国会議員が国民の税金を配分する予算の審議をしているという、何とも不可解なことが現実に起きています。
これが会社なら、これが一般個人にかかわることなら、どうなるのでしょうか。法に反して何かをしでかしてしまったのに、違憲(状態)だけど、会社も個人も何の咎めを受けないことにはならないはず。法治国家で、憲法に照らして最高裁の判決に対してまで、国家権力がここまで跋扈して、一人一人の国民の主権が無視されてしまっている現状に、国家や権力とは何かを改めて考えさせられてしまいます。
正義とは
コラムで結論めいたことを言うつもりはありません。しかし、一度権力構造が出来てしまうと、すべてが何となく流されてしまう不思議な傾向が発生します。 何が正義なのかの正当な判断軸が曖昧になりがちです。その最大なものが、国家や国家権力ということになるのではないでしょうか。
皆様も一国民として身近なところから正義とは何かを見直してみては如何でしょうか、少しでも、国民が安寧に生活を営めるように。
国家とは何かを考える(1)
私は最近、国家という得体の知れないモノが不思議に思えて仕方ありません。
いろいろなところで国家の在り方が特徴的にみられる事象が発生しています。ウクライナなど国家間の紛争、官僚による、国民から集めた税金の特定事業等への配分、一人一票の国民の投票価値の毀損などの最近の事象に遭遇すると、一人一人の国民の意思や権利が、国の政治などの中で本当に反映されているのかを考えさせられることが多くあります。
国民と外交
ウクライナをめぐる、ロシアとアメリカを中心とする7か国のここ数か月に亘る攻防。
ウクライナという国家を維持存続させ、自国民の権利を守るために旧ウクライナの代行リーダーと、新たに大統領となったリーダーの必死に頑張る姿が映像に映し出されている反面、G7各国とロシアの首脳の交渉ぶりを映像で垣間見るに、両陣営の首脳ともウクライナという国家とその中に住んでいる国民のことを、どう真剣に考えて対応しているのかが全く見えてこないのが残念です。
自国の利益をどう確保するかのみに判断軸の中心をおいて対応しているのではないか、という印象を受けるのは私だけでしょうか。「これが外交である」と言えばそれまでですが、これらの情報に接するたびに、国家とは何かということに素朴な疑問が湧いてきます。
祖国を愛する心と国家主義
国家の中にはいろいろな民族がいます。○×民族や○○民族が住んでいて、社会生活を営んでいます。この民族は当然土着の風習や宗教を持ち、周囲の他の民族との折り合いをつけながら安寧に生活しています。
何らかの時に、誰かがこの民族を、ある種束ねる目的で線引きをして国家を形作ってきていますが、これが物事を複雑にします。中の住民の意思とは関係ない理由で線引きされた国家の中に、特定の民族が属すことになることもあります。一つの国家の中に多民族がいる、また、一つの民族が多国家にまたがり、隣の国家との関係が上手くいっていない中で苦痛を強いられているなど、いろいろな問題も派生していきます。否、むしろこのような複雑な状態こそが現実の世界です。
ここにこそ、それぞれの民族の自治と自由度を含めて住民の意思を尊重し、国全体を統治していく相当高度な政治的リーダーシップが必要とされています。愛国心のPatriotism(祖国を愛する心)があるのは当たり前としても、Nationalism(国家主義)の高揚を政治的に利用するリーダーシップは時代遅れだという認識を持たねば、この複雑な状況を統治するのは今や至難の業です。それほど国家のリーダーの時代認識、さらに、仁徳と力量が要求されます。そうでない場合、統治される国民の側からすれば、彼らが国家の中に含まれるメリットを全く享受できないか、時には有害にすらなるかもしれないからです。
国家のリーダー
にもかかわらず、一部の国のリーダーは、19世紀から20世紀初頭の頃の帝国主義国家のリーダーになりつつあるのではないかと、私には映ります。国民のナショナリズム(国家主義)を鼓舞して領土や領海の覇権を競い、海洋を含む世界地図の分捕り合戦を再度展開している有様です。当然の流れとして、国民という土着の民族の安寧等はどこかに飛んで行ってしまっている状態です。
このように、中に居住する国民の生命・財産が危うくなると、国民の心理は、「強い国家の庇護のもとにいるのが安全」という方向に靡きがちです。国民はそのような強い国家の国民になりたいという錯覚も抱きます。
しかし、世の中、そんな余裕のある国は数えるほどしかありません。しかも、それを長年維持できる力を持った国などほとんどない状態です。とすると、軍事的に強い、弱いという判断軸で国家主義のもとに国民を愚弄するリーダーの戦略は、それぞれの民族や国家の維持発展のためには全く間違いであることに、一部の国のリーダーは早く気づくべきであると思います。そうでない限り、民族を束ねる国家としての役割がますます疑問になってくるからです。
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