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判断

第216回 不合理な判断のクセ

Posted on 2016-09-01

 ほとんどの人間は、自分は合理的な思考をしていると思っています。何かを購入する時の判断も、自分の消費行動を合理的と言いたいのが常です。

 しかし、果たしてそうでしょうか。自分の経験に照らしても、人間はかなり不合理な判断やそれから来る行動をしている場合が多いと気づきます。それに気づいて、少しでも合理的な判断をしようと努力していますが、いまだに不十分です。

 

一部の選択肢からの判断するクセ

1.人間は選択肢が沢山ある場合、かえって情報過多に陥り迷います。本来、それらの情報の中から無駄なものを省き、その中からあらゆる可能性を考えて適切に判断を下すのが正しいことも分かっています。

 現実には誰でも、自分の頭の中に浮かんだ一部の選択肢のみに注目して、それから判断する傾向があります。それで満足してしまうのです。しかし、本当にそれで良い判断が出来たのか。その時に自分の都合の良さそうな事象で判断して満足する傾向があることを忘れてはなりません。

 

最初の強烈な情報をもとにした判断のクセ

2.しかも、世の中の沢山ある情報の中で、自分が強い印象を受けた事象や最初に頭に浮かんだ事象を下にして判断していることがどんなに多いことか。

 このリスクを少しでも回避しようと、私はある時期から、それらの情報を一定期間メモの形で寝かせておくことにしました。手帳に挟んだpost-itを利用することが多いです。

 出会ったときには強烈な印象をもたらした事象も、時間を経てpost-itの内容を見ると意外にも最初の強烈さがどこかに飛んでしまうことがあります。

 このことで少しでも客観的で合理的な判断をする努力をしていました。

 

一部で全体を決める判断のクセ

3.さらに、沢山ある情報の中で、ある部分がその全体を決めることにつながることが如何に多いことかも思い知っています。

 脳の構造とも関係があるかもしれません。人間が反応することの多くは、感覚的な情報からです。その感覚で強烈な印象を持つと、他の部分もその印象に引っ張られてしまるようです。

 犯人像も一例です。指名手配の写真を見ると、そのことが目立ち、彼のすべての人格を悪と決めてしまうクセを持っています。

 現実には、その人の良い所も沢山あるはずです。何かのきっかけで罪を犯すことになったかもしれません。しかし、我々一般的な人間はその写真一枚で彼の他の部分も見る癖があります。

 これを少しでも回避すべく、私は人をできるだけ多面的に見ることにしています。特定の社員の噂もしかり。ある人物を誹謗中傷する情報が流れると、その人物の全体をすべてその情報に紐づけてみるようはことを止め、「本当にそうかな?」と特定情報から感覚的に判断するのでなく、事実に戻り、それをもとにして判断する努力をしています。

 

それまでの判断を踏襲する判断のクセ

4.過去の判断が誤っているのに、その踏襲をするクセが人間にはあります。経営上、特定の判断で失敗したのに、更に多くの追加投資することも知っています。

 ビジネス社会で、その失敗が大先輩の判断である場合、余計たいへんです。しかし、考えてみると、その組織全体でみる限り、犠牲を最小限に食い止めるのが経営者の役目です。摩擦を恐れず最大限合理的判断をする行動努力を惜しんではなりません。

 

自分の力を過信した判断のクセ

5.サンプルの数が多いほど信頼性の高いデータが出ますが、人間には、自分の判断能力を過信するのみならず、状況をコントロールできる力があると過信することがあることです。ほとんどの人が学校で学んで分かっているにも関わらず、現実の判断では忘れがちになり自分を過信します。

 サンプルの数が多いと、そのサンプル次第で偶然に左右されることが少ないのです。例えばコインの裏と表をトスで決める方法がありますが、偶然、裏や表が出るのみで、これを一万回やればほぼ、50%の確立になることも、皆知識としては知っています。

 にもかかわらず、現実には、このような判断をしないで自分勝手な判断をすることが多いのです。

 

実力を反映しない判断のクセ

6.何事も、自分の実力の平均に近づくことを忘れがちです。経営上もしかりです。

 ある偶然で、良い経営結果が出た。ところが翌年は出なかったことで悩むものですが、良く考えてみると、自分の実力以上のことが昨年出来ただけで、それらと今年の実績を合計すると、実力の範囲内であることを忘れがちになります。

 悩むより、自分の経営の実力をあげるために勉強することが先の筈です。ところがこう考えないのが人間のクセです。立派な経営者は不合理な判断をする人間のクセに気づき、柔軟に考え方や行動を修正する力が強いのではないでしょうか。

 

みなさんは原子力発電についてどう考えますか?

Posted on 2012-06-21

ドイツの原子力発電に対する判断と火山列島日本の事情

 ドイツは、2022年までに原子力発電炉を廃止し脱原発するとの決断を、メルケル首相が下しました。彼女は過去に原発に賛成していたのになぜ転向したかは不明です。反原発の嵐の中での政治的判断かもしれないとのうがった見方もあります。

 ドイツ首相の判断の是非は別として、今回の記者発表での首相の説明に関しては、その判断と判断の背景が民意を反映したものであるかが素朴に問われます。

 NOAA(National Geophysical Data CenterのNational Oceanic and Atmospheric Administration)からSignificant Earthquakeとして過去の大きな地震記録という興味あるデータが公表されています。

 また、あるブログにも、海外のデータをISC(国際地震センター)のカタログ(1904~2000)から、日本のデータについては気象庁地震年報から抽出した結果が紹介されています。この情報をみると衝撃的です。

 1970年から30年間にマグニチュード5.0以上の地震の発生件数が、イギリスは0件、フランスは2件、ドイツは2件、アメリカは322件、日本は3954件とそのブログに紹介があります。この事実をどう見るかです。火山列島の日本では、ドイツや他の国とそもそも違う判断基準が要請されるのではないでしょうか。

 ついこの間発生した東日本大震災に関わる詳しい原因や今後の対策や安全性についての科学者の見解を、国民が聞く機会がないうちに今回、福井県の大飯原子力発電所に「ゴーサイン」が出されたという政治の判断は、国民を納得させるに十分か疑問です。国民の安全性を担保するためにこの分野のプロの個別の意見を、どのように全体として集約した最終判断なのかのプロセスが全く見えません。

 放射能の拡散で海の汚染、食物連鎖など解決に何十年かかるのか、これまで政治が発した情報もほとんど信用を失墜している中でのこの判断です。

他力本願でない日本人の判断と行動

 日本人は、一般的に「喉元過ぎれば熱さを忘れる」気質があると言われます。また、われわれ日本人は政府や他人の考えに頼りすぎているのではないでしょうか?いわゆる他力本願「そのうち、何とかなるだろう」的発想をしやすい国民性がでて来ているのかもしれません。しかし、こと原発の再稼働に関しては、ここで曖昧な判断を許すと国家100年の禍根を残すことになりかねません。

 他方、我々と対極的な発想をすると言われるドイツ人はどうでしょう。

 ドイツ人は原理原則を重視し、German Angst(ドイツ人の不安)と彼らを皮肉る言葉があるくらい物事への見方が一般的に悲観的であるとも言われます。先のデータ通り、大きな地震がほとんどない国ですから、地震などの自然の脅威にさらされる度合いは、我々日本人の比ではありません。ですから、今回の東日本大震災時に発生した原発事故に対する感度の高さは我々の想像をはるかに超えているはずです。

 感覚に関する精神物理学の基本法則と言われる「ウェーバー・フェヒナーの法則」では、「人間が刺激の変化を感じ始める水準は、すでに存在している刺激の一定の割合である」として、この法則は五感のすべてに近似を与えることが知られています。初めから加えられる基礎刺激量の強度と対応する刺激量の変化値の比は、基礎刺激量の大きさに関わらずほぼ一定とのことです。

 今回の福島原子力発電所の事故のごとく、それまで発生していた原発事故のトラブルからの刺激量の程度と比較して、その刺激量の変化の識別度合いが余りに大きく、ドイツ人は大きな衝撃を覚え、メルケル首相の判断に至ったかもしれません。ドイツ人は危険や自然の脅威にさらされる度合いが低いが故に、いざという時のリスクに対する判断が特徴的です。すこぶる安全サイドの判断で、その判断をすぐ行動に直結させる所も特徴的です。

 火山列島の上に生存するわれわれ日本人も、こと原子力発電のリスクと自然の脅威に対しては、ドイツ人の選択以上に慎重と強靭で、他力でない主体性をもって判断、行動したいものです。将来、日本人の生命のみならずその他の国に危害と脅威をもたらさないとも限らないからです。