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リーダー

第260回 苦悩した凄いリーダーの業績と言葉(2)

Posted on 2017-10-26

前回からの続きです。

 

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

 西暦121年ローマに生まれ、161年第16代のローマ帝国の皇帝に即位。180年に伝染病で逝去した人物です。享年58才だったということになります。

 

賢帝の治世

 実は、彼の治世は多難続きでした。

 パルティアとの抗争により軍人が天然痘をローマに持ち込み、それが蔓延、ゲルマン人の侵入など多くの対外的問題を抱える一方、国内ではキリスト教勢力の拡大、食糧難による飢餓、反乱の発生等、ローマは難題山積みでした。

 アントニヌスは内憂外患に陥るローマ帝国の安定化に努めた皇帝で五賢帝の時代を築いたほどの人です。一方で後継者指名に禍根を残し賢帝も彼の治世をもって終了したので、皇帝としての評価が分かれるところもあります。

 皇帝として仁の政治を敷き国民から信頼と愛情豊かなサポートを集めて慕われた皇帝と言われ、彼の死後1世紀にも渡りローマの多くの家では守護神の一人として彼を祀ったという伝説的な皇帝です。

 政治的な業績はいろいろなところで紹介されていますので、ここでは割愛させていただき、読書と瞑想にふけることを好んだ彼が公務の傍ら、心に浮かんだ自らの考え、思想や自省自戒の言葉などを断片的に書き留めたものの中から、私が過去経営していた時や現在も、個人的に参考にしている言葉を数点以下に紹介します。

 

「自省録」からのヒント

 その言葉は「自省録」として世の中に伝わっており、彼が精通していたストア哲学が思想背景にあります。イギリスを代表する哲学者、J・S・ミルは「自省録」を「古典精神のもっとも高い倫理的産物」と高く評価したと、ある書物に記載してあるほどのものです。2000年も前にこのような人が書き残した言葉の奥には驚きの一語に尽きる内容を秘めています。

 私自身、約20年の経営の折々に自分が経営上大事だと思っていたことを『折々の言葉』に書き留めておりました。今思うに少なからず皇帝の言葉に影響され、類似した内容を書き留めていた部分があることを喜んでいます。

・「何人にでくわそうとも、直ちに自問せよ。この人間は、善悪に関していかなる信念をもっているか」

 私の言葉で言えば、「誠実に生きる人か否かを見極める」ことに通じています。信念なく誠実でない人は、善悪の判断や行動に私欲が出すぎるのではないでしょうか。経営の過程で遭遇したあるディールで私もこのことを知ることになりました。

 これに悖るような行動を選択した幹部社員もいました。その人の後半生が、胸に刺さった刺を気にしながらの人生になっているのではないかと、私は気にしています。

 

・「目標に向かってまっしぐらに走り、わき見をするな。生きている人間にとっても、賞賛とはなんであろう。せいぜい何かの便宜になるくらいが関の山だ。」

 「隣の芝生の青さや他人からの評価を気にするな」と、私は言っています。脇見をしたり、周囲の評価を気にしながら経営をするようでは、経営の「軸」がぶれて立派な経営が出来なくなることを、経営指導時にアドバイスしています。

 

「人が失いうるものは、現在だけである。我々は急がなくてはならない。それは、単に時々刻々死に近づくからだけではなく、物事に対する洞察力や注意力が、死ぬ前に既に働かなくなっているからであう。」

 「今を大事に」、「今を一所懸命に生き抜く」と、言い換えています。今を生き抜く過程で、経営の洞察力や先見性が磨かれていくのではないでしょうか?

 

・「よし君が怒って破裂したところで、彼らは少しも遠慮せずに同じことをやり続けることであろう。」

 リーダーとして我慢も大切です。部下の大きな失策に激怒して叱責しても、余り生産的ではないことが多いです。それよりも、彼が二度と同じ過ちを犯さないようにリーダーは導かなければならないと諭しています。但し、金銭に関わる過ちを犯す人は、その人のクセに根差すところが多いので、その指導が結構難しいことを私は経営上体験しました。

 

・「いかなるところと言えども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠れ家を見出すことはできないだろう。中略。であるから、絶えずこの隠れ家を自分に備えてやり、元気を回復せよ。そして完結であって本質的である心情を用意しておくが良い」

 自らの心の持ち方、精神的安定性がないと立派な経営ができないことを、身をもって体験しました。特に、重要な経営判断の時にしかり。

 

・「君の不幸は…何が不幸であるかについて判断を下す君の能力の中にある。」

 自分自身の責任がどこにあるかを常に自省することは経営者ならずともビジネスマンに全て共通することではないでしょうか。

 

私自身も他の凄い人の言葉に加えて、アントニヌス皇帝の言葉も経営上の自省として大いに参考にしていました。ご参考になりましたでしょうか。

 

第259回 苦悩した凄いリーダーの業績と言葉(1)

Posted on 2017-10-19

 世の中には凄い人がいたもんだ、とつくづく感激することがあります。

 今回は全く違う分野の二人を紹介します。というより、自分自身が、このような凄い人の業績や言葉を爪の垢を煎じてでも飲みたい、経営や人生の参考にしたいと思っているからです。

 

伊奈(半左エ門)忠順(タダノブ)という人物

 ご存知の方もいるかと思います。彼の働きぶりには本当に感動しました。世の中に彼のような人物が沢山いたかもしれませんが、今回はこの代官を取り上げます。

 徳川幕府、綱吉将軍の時代の末期、江戸では元禄文化を謳歌していたこの時代に、彼は御殿場付近の御厨地方の代官でした。

 実は、大分前に新田次郎氏の『怒る富士』(1974年出版)を読んだ記憶があります。新田次郎氏は富士山の気象所に勤務した経験を持ち、地元の人々から伊奈忠順のことを聴いていたので、この小説に著したのではないかと推測します。しかし、若気の至り、当時はこの本にそれほど感銘を受けていなかったようで、余り記憶に残っていませんでした。

 ところがこの9月、テレビのある番組で彼のことが紹介され改めて彼の偉業に気づいた次第です。個人的には富士小山の付近でゴルフをすることが多かったので、余計親近感を持って彼のことを調べました。

 伊奈家は代々土木技術、測量術、算術に秀でた一家で、玉川上水の工事を担当したのも祖先の伊奈忠治(3代目)、忠真(4代目)などで、忠順はその子孫で7代目にあたるとのことです。

 忠順(通称、半左エ門)の苦難と賞賛の仕事ぶりは、宝永4年(1707年)に宝永の大地震に続く富士山の大噴火(800年の延歴の大噴火、864年の貞観の大噴火に続く富士山の3大噴火の一つ)による大災害が浮き彫りにすることになります。彼自身の人生でも全く想定外だったのかもしれません。

 

富士山の大噴火

 宝永4年10月28日の富士山の大噴火は、直前の大地震に続くものです。今のスケールでは、地震のマグニチュードは8.6~8.7という凄まじいものだったようで、その震源は最近話題の南海トラフだそうです。この大噴火の時、富士山の南東の地域は小田原藩に属していました。

 それなのに、何故、幕府が登場し、半左エ門を復旧工事と被災者の救済のために現地に代官として派遣したのでしょうか?

 大噴火の数年前から日本列島の地殻が大きく変動していたようで、江戸幕府は度重なる天災で財政難の極み、幕府の勘定奉行(今の大蔵大臣)萩原重秀は歳出の削減を図っていた時期でした。

 

御厨地方の大被害に対応できない小田原藩は、領地を幕府に返却

 小田原藩の10万石の領地の6割にあたる駿東郡・足柄下郡・上群が噴火による火山灰で埋まってしまいました。小田原藩は自力での復興は無理と判断し、この領地を幕府に返上してしまいました。

 そこで幕府が直接指揮を執ることになります。幕府は半左エ門の過去の実績を評価し、彼に現地派遣の白羽が立ったのだと、私は理解します。

 半左エ門の運命が大きく変わる契機となった時期です。

 富士スピードウェイ近くに火山灰堆積の保存現場があります。スコリアと呼ばれる軽石の堆積層は約3メートルで、ゴルフの帰りに保存現場を立ち寄り見学した時には、私も本当にびっくりしました。

 100キロ先の江戸でも6センチほどの灰が積もり、風が東方面に吹いたために千葉でも灰が相当積もったとのことです。落花生しか耕作できなかった痩せた土地になったのも、この降灰が影響しています。未確認ですが、江戸にいた新井白石が『折りたく柴の記』に真っ黒な空、雷、降灰のことを、恐怖心を交えて記載していると言われているほどです。

 富士山の付近でのこの災害に対して財政難の幕府は何もできず、その状況は目を覆うばかりであったとテレビで報道されていました。もっとも被害の大きかった駿東郡足柄御厨地方へも幕府の支援は行われず、59の村が「亡所」とされ放棄されてしまうほどでした。沢山の農民が餓死したと言われています。

 噴火での死者は少なく、噴出した溶岩石による火災や降灰、洪水などによるその後の食糧不足で餓死者が2万人出たと言われています。

 東海道の大動脈を酒匂川が横切っています。富士山の噴火で、また噴火の灰が大量に酒匂川などの川に流れ込み水位上昇による堤防が決壊し、水没する村が続出した状態でした。

 

義援金の流用

 早期復興を目指した治水工事のためには、カネと人手が必要となります。大量の木材も当時は必要です。

 このため幕府は被災地を幕府領化した後、諸国に義援金を要請、復興資金として各大名から強制的に義援金を集め復旧に着手しました。

 ところが半左エ門が推薦した地元の建設業者を幕府は使わず、裏取引で江戸の業者のみが入札獲得する状況。また、悪徳商人が木材を供給不足状態に操作し大金を手に入れる。今もどこかで耳にする話が当時からあったようです。

 義援金の一部は江戸城の大奥の改修工事などに流用されたり、29年ぶりに日本にやってくる朝鮮通信史の使節団の接待などに60万両の金を使われたりし(しかも皮肉にも半左エ門が接待担当に任命された)、伊奈が治める御厨地域には義援金が回ってこないという状態でした。

 義援金の半分しか復興に使われなかったと言われるほどです。

 一部の大名は復興を権力闘争に利用したため半左エ門がどんなに頑張っても復興は遅々として進まず、1711年、すなわち宝永大噴火から4年過ぎて被災地への関心が下がる一方になってしまいました。前年にはどうにか1万両単位の支援があったものも、その後滞りがちになる。半左エ門自身も6千両私財を投入しても焼け石に水。

 この頃幕府の勘定奉行がすべての権限を握り、そのポジションに後に新井白石により弾劾され失脚することになる荻原重秀が就いていました。江戸の三大改革の一つ、徳川吉宗の享保の改革が行われる少し前の時代です。

 

我慢の限界で半左エ門の取った行動

 それでも半左エ門は我慢をして奉行として職務に努力していましたが、現場視察で農民の困窮を目の当たりにすると、これまでの幕府の路線に憤りを覚え、遂に江戸幕府の荻原重秀に陳情するに至りました。このこと自体が当時としては異例中の異例。

 それでも幕府が動かないと知るや、今度は伊奈家の取りつぶしを覚悟で救い米と称した緊急用の幕府の米倉(小田原6万石で駿府に倉があった)を開けさせ、農民への施しをしたと言われています。農民の一部は餓死せず冬を越す事が出来た。

 幕府側に立つのでなく、良心に従って農民側に立った、しかも違法に近い行動を、半左エ門がとったことになります。

 この行為を幕府の目付にとがめられて、最後は自害(病死の節もあり)する羽目になりました。御厨地方を含む山北や小山では灰が積もって農業が不可能になっていましたが、彼の知恵で軽石の山の土を「天地返し」の作業で元の土に戻すことで正常に農業をできるようになったと言い伝えられています。

 彼の遺徳をしのび小山町須走に「伊奈神社」が建立されました。

 後日談ですが、資金を工面し半左エ門などが復興に尽力して20年も経っても御厨地方は復興できない状態が続きました。その後、大岡越前守忠相に見出された田中休愚が徳川幕府の命を受け、享保8年(1723年)から御厨地方の本格的復興にあたって今日に至ったとのことです。

 

第212回 今、リーダーに求められている経営の視座(7)

Posted on 2016-07-28

前回の続きです。

 

海外の幸せ観の例

 幸せの国際比較をした研究があることもも知りました。2006年イギリスのレスター大学が178か国を対象にしたもの経済成長率のみでなく、健康、景観、教育、信仰心などを基準に各国の幸福度を計測したものです。

 日本は90位ですが、1位はデンマークです。

 この国は地図で分かる通り、平坦で比較的暖かい。農業が強い国で、社会保障制度を早々に充実させ福祉国家を築いた国と社会科で学びました。

 なぜ幸福度が高いのかは別として、本題との関係で幸せに焦点を当ててみます。

 この国出身の童話作家のアンデルセンが有名です。

 皆さんご存知の童話、『マッチ売りの少女』が幸せを語っているのではないかと思います。これはデンマーク人に幸せの考え方を諭したものとも捉えることができます。以下は、Wikipediaからの全文引用です。

「むかしむかし、雪の降りしきる大みそかの晩。
みすぼらしい服を着たマッチ売りの少女が、寒さにふるえながら一生懸命通る人によびかけていました。
「マッチは、いかが。マッチは、いかがですか。誰か、マッチを買ってください」
でも、誰も立ち止まってくれません。
「お願い、一本でもいいんです。誰か、マッチを買ってください」
今日はまだ、一本も売れていません。
場所を変えようと、少女が歩きはじめた時です。
目の前を一台の馬車ばしゃ)が、走りぬけました。
危ない!
少女はあわててよけようとして雪の上に転んでしまい、そのはずみにくつを飛ばしてしまいました。
お母さんのお古のくつで少女の足には大きすぎましたが、少女の持っているたった1つのくつなのです。
少女はあちらこちら探しましたが、どうしても見つかりません。
しかたなく、はだしのままで歩き出しました。

冷たい雪の上を行くうちに、少女の足はぶどう色に変わっていきました。
しばらく行くと、どこからか肉を焼くにおいがしてきました。
「ああ、いいにおい。・・・お腹がすいたなあー」
でも少女は、帰ろうとしません。
マッチが一本も売れないまま家に帰っても、お父さんはけっして家に入れてくれません。
それどころか、
「この、役立たずめ!」
と、ひどくぶたれるのです。
少女は寒さをさけるために、家と家との間に入ってしゃがみこみました。
それでも、じんじんとこごえそうです。
「そうだわ、マッチをすって暖まろう」
そう言って、一本のマッチを壁にすりつけました。
シュッ。
マッチの火は、とても暖かでした。
少女はいつの間にか、勢いよく燃えるストーブの前にすわっているような気がしました。
「なんて、暖かいんだろう。・・・ああ、いい気持ち」
少女がストーブに手をのばそうとしたとたん、マッチの火は消えて、ストーブもかき消すようになくなってしまいました。
少女はまた、マッチをすってみました。
あたりは、ぱあーっと明るくなり、光が壁をてらすと、まるで部屋の中にいるような気持ちになりました。
部屋の中のテーブルには、ごちそうが並んでいます。
不思議な事に湯気をたてたガチョウの丸焼きが、少女の方へ近づいて来るのです。
「うわっ、おいしそう」
その時、すうっとマッチの火が消え、ごちそうも部屋も、あっという間になくなってしまいました。
少女はがっかりして、もう一度マッチをすりました。
すると、どうでしょう。
光の中に、大きなクリスマスツリーが浮かびあがっていました。
枝には数え切れないくらい、たくさんのロウソクが輝いています。
思わず少女が近づくと、ツリーはふわっとなくなってしまいました。
また、マッチの火が消えたのです。
けれどもロウソクの光は消えずに、ゆっくりと空高くのぼっていきました。
そしてそれが次々に、星になったのです。
やがてその星の一つが、長い光の尾を引いて落ちてきました。
「あっ、今、誰かが死んだんだわ」
少女は、死んだおばあさんの言葉を覚えていました。
『星が一つ落ちる時、一つのたましいが神さまのところへのぼっていくんだよ』
少女は、やさしかったおばあさんの事を思い出しました。
「ああ、おばあさんに会いたいなー」
少女はまた、マッチをすりました。
ぱあーっとあたりが明るくなり、その光の中で大好きなおばあさんがほほえんでいました。
「おばあさん、わたしも連れてって。火が消えるといなくなるなんて、いやよ。・・・わたし、どこにも行くところがないの」
少女はそう言いながら、残っているマッチを一本、また一本と、どんどん燃やし続けました。
おばあさんは、そっとやさしく少女を抱きあげてくれました。
「わあーっ、おばあさんの体は、とっても暖かい」
やがて二人は光に包まれて、空高くのぼっていきました。」

 

 上記の引用を勝手に簡略化して解釈すると、冬の寒い夜に貧しい少女がマッチを売っていました。なかなか売れません。凍え死ぬような寒さの中、少女が自分を温めようとマッチを擦ると、ストーブが目の前に現れてきます。ところが、暖を取ろうとストーブに近づくとストーブは消えてしまいます。次にマッチを擦ると、ご馳走が並び燭台が現れますが、それを手に入れようとすると、ご馳走は消えてしまいます。

 また少女がマッチを擦ると、おばあさんが現れ、少女を抱き上げて天国に連れていきます。

 翌日、残ったマッチを抱えながら少女が死んでいる姿を見ることになるのです。

 

デンマークの幸せ概念

 この教訓は、人間は幸せを求めようとすると、なかなか得られない。たとえそれが得られることがあってもすぐに消えてしまうことを暗示しています。さらに、高望みをすることが如何に無益なことかも警告しています。

 欧米の一部の経営者には、家庭を犠牲にしてまで高額の経営報酬を求めて働き続け、さらに高望みを追い求め、結局、際限のない欲望の壁に突き当たり人生を棒に振った人もいます。そのような人を私は見てきました。

 そのようにならないようにアンデルセンは、玄侑氏の説く人間関係というより、自己を律する厳しい心を前提においているとみられます。彼の考え方がデンマークやヨーロッパを代表する意見かは不確かですが、幸せの考え方の違いが見えます。

 人は自己を律しそこそこの幸せを求めることによってこそ、満足度の高い人生を送ることができることです。この考え方が日本にないわけではありませんが、玄侑氏の人と人との関係から幸せを説く意見も非常に参考になります。

 

ゼロ成長時代の幸せ観

 日本のようなマイナスの人口成長率では経済成長率は高まるはずがありません。高めるには出生率(含む移民)を上げるか、資本の成長率、技術進歩率を上げることが必要だと慶応の時、経済原論で習ったのですが、それを実現する策がもちろん必要です。

 加えて、ゼロ成長率の時代の日本での「幸せ度」をいかに上げるかという、これまでになかったテーマに正面から取り組むことが国家施策として必要ではないでしょうか。

 ご参考になれば幸いです。

 

第211回 今、リーダーに求められている経営の視座(6)

Posted on 2016-07-21

前回からの続きです。

 

「幸せ」の概念

 私は、「これからの社長の仕事」(ネットスクール出版)の中で「農耕型企業風土」づくりを通じて会社を中・長期的成長と発展を実現できる「フォーミュラ」を説いていることを、この「今、リーダーに求められている経営の視座」の数回前に書きました。

 この「フォーミュラ」の特色は、社員を幸せにすることで会社の成長につなげることを骨子としているもので、会社の成長が社員を幸せにすることではないことを逆説的に強調したものです。

 これを国レベルで例えると、国の経済力がその国民の幸せレベルに必ずしも比例していないことでも分かる通り、国民の幸せ度はGDPなどの数字では測れません。

 現在もこの考えが踏襲されているかは未確認ですが、1976年にブータンの国民総幸福(Gross National Happiness)という概念(詳細省略)が紹介されたのも一つの試みです。

 

日本的幸せ観

 幸福度の国により考え方の差があるかは後述しますが、ここで一番言及したいのは日本人ならではの「しあわせ」観です。幸せの感じ方が日本での経営に大きく影響する考えているからです。

 たまたま読んだ玄侑宗久氏の『しあわせる力―禅的幸福論』に面白いことが書いてありましたので、参考のために要約紹介します。

 

語源

 「しあわせ」という言葉は和語で、室町時代には、人と人との関係がうまくいくことを「仕合わせ」と呼んだと言います。詳細な説明は省きますが、すなわち、日本人が考えたしあわせは、常に相手がおり、西洋的な計量できるしあわせ観と違うというのです。

幸福の幸という文字、日本人はこの一字で「さいわい」と読んでいます。「さいわい」は、「さきわう」という言葉が変化したもので、さきわうは賑やかにいろいろな花が咲いている状態のことだから一人では無理だと玄侑氏は言います。

 要するに人間関係、人と人との間で「しあわせ」が決まると日本人は考えたと、玄侑氏はいいます。人間関係がしあわせをもたらすものだということです。

 玄侑氏によれば、「日本人がしあわせを感じるのは、思わぬことが起きて、その中で揺らぎながら何とかやりくりしつつそれを楽しんでいるような状況」ということになりますが、すべてロジックで片ずけ因果律で考え、確実な近未来を想定しようとする現代社会の発想とは違います。その発想では、予定外のことが受け止められなくなり、そのため、しあわせは、起りえないと彼は説いています。

 私もそう思います。

 障子で覆われた三畳の小さな茶室に寝そべり、障子に映る外の四季の移ろいを楽しむ。光も音も遮断しないのに、幽かな心豊かな瞬間を楽しむ。この自然との相対の中で変化を楽しむ国民性が日本人には本来あるはずです。

 物事は相対的です。関係性を重視し、これに上手く対応することが日本人の幸せ感の根底にあると、私も思います。

 

行き過ぎた個性の主張が妥当か

 これに対して最近気になるのが個性という言葉だと、玄侑氏は論じています。

 自己の輪郭を明確にすることを迫られ、明確にすればするほど説明できない事柄が増えています。

 自己の輪郭を明確にするには自己言及をすることになりますが、これにはきりがない。ちょうど自分のしっぽを咥えて食べる蛇のようなもので食べれば食べるほど苦しくなります。本来自己というものは関係性の中に成立し、関係は絶えず変わり続けるものと日本人は考えていたと、」玄侑氏は述べています。

 弱い人間が生き残ってこられたのは、集団で暮らしていたからで、こういった集団を作れる力が「しあわせる力」といえる。ところが、現在われわれは人の世話にならないシステムつくりをどんどんすすめてきています。「核家族」、「一人住まい」してその結果、人間の本質的な力がどんどん衰え、コミュニケーション力も弱まったのではないでしょうか。

 

皆で仲良く

 七福神という集団がしあわせをつくることも紹介されています。七人の幸せを運ぶ人です。昔自宅の神棚の横に七福神が飾ってあったのを記憶しています。

 七福神をめぐって歩く習慣は、江戸時代に江戸で始まったようです。七福神そのものは、室町時代末期ごろ、京都の臨済宗のお坊さんが考えだしたと言われています。

 なぜ七福神を作ったのかです。

 八百万のイメージなのだそうです。インドからの毘沙門天、大黒天、弁財天、中国から福禄寿、寿老人、布袋さん、あと一人日本から恵比寿さん、合計7人です。

 八百万のどの一つにも正義を求めないという日本人の感性が凝縮して示されている。正統も異端もなく横並びにごちゃまぜであることがしあわせなのだ。全員一致などありえないと、玄侑氏の本に紹介されています。

 日本人の幸せ感、素晴らしい意見だと思います。

 

第209回 今、リーダーに求められている経営の視座(4)

Posted on 2016-07-07

前回の続きです。

前回リーダーの資質などについて述べましたが、そのリーダーにも沢山の艱難が待っています。

 

困難へのリーダーの対処

 ビジネス上、沢山のトラブルや困難が一度に舞い込んでくる時があります。この時も、トップは我慢しなければなりません。特にベンチャー的な発展段階ではしかりです。

 いろいろなことが同時に発生し、その解決も単純ではありません。それでも、自分の仕事を投げ出さずに我慢して課題を解決しなければなりません。この時、リーダーはどう対処したらよいでしょうか。

・普段から情報開示を旨とし、常に開かれたコミュニケーションルートを経営上目指すことが大事です。

 自由に意見を言えない、何か発生しても隠す風土があるとしたら、これがリーダーの姿勢から発生していることが多いです。

 何かの事態が発生しても、リーダーは状況を隠さずありのままに開示して、全員が共通の理解の上で課題を解決する方向に持っていきたい。

・リーダーが自分の心理をコントロールする。

 実は、このことがリーダーとして非常に重要なことです。

 不安定な心理状態は、すぐ社員に伝わります。「何かあったのか?」、「自分の仕事はどうなるのだろう?」など不要な不安を社内にまき散らす原因となります。

 友達に相談することも方法です。また、自分の悩み事を何かに書き留めて問題を整理することも方法です。やたら不安を社内で掻き立てないことです。

・社員、商・製品、利益のうち、社員を最も大切にする。

 働きやすい環境を作ることにリーダーが努力をしていれば、社員という仲間がいるので、困難に直面してもリーダー一人で悩み背負い込むことがなくなります。

・社員への教育を重視することです。

 社員への教育投資を惜しまない。

 社員が辞める理由は、上司が嫌い、何も教えてもらえない、教えて育てる環境がない場合が大半ですが、もし社員への教育のなさをなげいているとすれば、そのような状態では生産性が下がるのも当たり前です。

 にもかかわらず、リーダーがこのことを認識していない場合が多いのは残念です。

・社内の政治力学に押されない経営をすることです。

 実績評価や給与査定のルールを厳格にやり、政治力学が作動しにくい仕組みとするのも方法です。リーダー自身も注意しなければなりません。よく相談に来る人をリーダーは評価しがちになります。これでは、リーダー自らが社内政治を作り出す原因になっているかもしれません。

 私の体験では、会社の成功を第一に考え、その副産物として自分の成功を考える人を採用したつもりでも、優秀な人材は最悪な社員になりうることも留意必要です。リーダーもしかりです。

 

心の習慣を変えるストレス・マネジメント

 今やリーダーはじめ世のビジネスマンにストレスに対する対策が不可欠になってきました。

 企業のリストラ、年功序列もなし、一定年齢になると給与がカットされるなどストレスが溜まるモノばかりです。ビジネスマン自身が限界感を感じてしまいます。

 特に、団塊の世代の人々は、仕事上、特定の居場所に上り詰めることに全力を注いできたからです。居心地が悪くなると酒、たばこに走る。しかし、それでは今の時代を乗り切れないのが今の世界です。

 しかし、人間にはこのようなストレスから回復する能力を元来備えもっていると言われています。へこんでも回復する力を持っています。

 笑いも良いでしょう。私の友人が「笑いの場」を設けて参加者を喜ばせています。心の生活習慣を変えることになります。

 深呼吸、体を動かす運動、睡眠、仲間や家族、自然との触れ合い等いろいろな方法があります。これらを実践すれば、ストレスからの回復力が増します。私もこれらのことを意識しています。

 人間性格があります。これをチェックするパーソナリティー指標も勿論あります。理想が高く厳格な人、受容的で思いやり豊かな人、客観的な人、自由で明るく行動的な人、自分の気持ちを抑えて周りに合わせる人等タイプがあります。

 自分の性格を知った上で、不足分を補う努力がストレスを予防できる方法です。決めたことをやらないと気が済まない性格の人もいますが、環境の変化に適合させて柔軟になるのも一つの方法です。

 ストレスからの回復力を高める資質の一つは、気楽に考える習慣です。辛いことがあっても「こういうことは起こり得ることだ。しかし自分は何とかやっていけるはずだ、大変でも意味がある」と思い、乗り切っていける資質です。

 リーダーはこうありたい。

 最後の方法として、とりあえず休むのも方法です。立ち止まり考えることです。焦ることは禁物です。

 

組織を動かすルール

 困難への対処も全てある目的に向かって組織を動かすためです。

 リーダーの統率する組織自体は複雑です。今、ますます複雑になってきているので、対処すべきことが多くあるように見えますが、「組織を動かすルール」は意外に単純です。

 私が「定石」と称することと重なるものです。

・組織をうまく動かすために、私は人間としての社員個人を、彼の行動を「知る」ことを重視していました。

 社員個々人を理解することと言いかえることもできます。今、何を望んでいるか、何をしているか、そのことで彼がどう満足をしているか等、とにかくその人を知ることです。

・社員、特に中間管理職の権限と自由に判断できる総量を増やすことにしています。

 社員個人に裁量を与えると、個人の行動を変えることにつながり、組織の動きが活発になるからです。

・助け合う環境を重視します。

 チーム自体が自立しながら協業する、チームワークを常に意識をすることです。集団で目指すアウトプットの共通理解がある前提です。対チームワークをよくして共同で何かの目標を達成する。このために対話の努力が必要となります。

・結果を共有することです。

 中間期、期末に目指した目標に対しての成果と反省を社員全員で共有することです。場合によりお祝いをする。

 助け合った人々に対して報いることです。しかもこれを単に金銭的なもので無く表彰など全員の前に彼の成果を示せる方法も得策です。

・組織を動かすために、もう一つ肝要なことは、対話力です。

 あらゆる仕事で、対話やコミュニケーションの取り方が重要です。商談、会議、報告会などビジネスマンならずとも、あらゆる人にとり仕事の重要な要素です。

 対話には言葉のメッセージによる対話と、ボディランゲージなど言葉以外のメッセージによるものとがありますが、リーダーにも双方が必要です。

 リーダーが「すみません、すみません」と公約を実現できなかったことを何回も社員に謝罪しながら、表情や体の動きから「本心が違うのでは?」と、我々には分かることがあります。ビジネスマンならず、だれでもこの違いを察知する能力を持っています。ところが、リーダーという立場になったとたんに、このことを忘れてしまう人もいます。時には、対話に於いて言葉より以上にリーダーの組織を動かす仕事に大きく影響を及ぼすことを忘れてはなりません。