ピケティ、経済成長、豊かさ
第149回 トーマス・ピケティから学ぶ(2)
前回の続きです。
5.豊かさと経済成長
ピケティ氏は経済成長だけで国民の豊かさが達成されるのか、あるいは、この限界があるかについて直接は触れてはいません。しかし私には、彼が格差の議論で間接的なメッセージを送っているとも受け取れます。
グロス(粗)のGDPで測るかネット(純)のNNPを測定単位にするかは別にして、それがうんと低い国では、経済成長と国民の満足がある程度比例的な関係にあることは事実だと思います。低所得から抜け出してテレビや洗濯機を購入できるようになった時代に、生活の豊かさを感じたことを思い起こします。
しかし、更に経済成長が達せられ先進国となった現在の日本では、GDPやNNPが増えたにも拘わらず、国民の生活の満足度は必ずしも上がっていないように思えて仕方ありません。すなわち、今の日本では、経済の成長と、生活の豊かさ、満足度との間にあまり相関は見られないように思います。 このような個人的な思いから眺めると、ピケティ氏から第三の主張が出てくるのも一部頷けます。高所得者への累進課税です。
今のグロ-バル経済は、巨万の富を築いた一部の個人が一国の富を上回る富を持つまでになっています。あの豊かなアメリカでは、数パーセントの最も裕福層が国富の過半を持ち、大量の最下層の人々は国富の数パーセントしか持たないと言われているほどです。このような状況下では、アントレプレナーシップを害さない程度で、資本所得より労働所得への分配が必要になるかもしれません。
これを解決するために、世界的な資本税としての累進課税を、彼は説いています。
6.ピケティ氏から学ぶ
さて、我々は、ピケティ氏から何を学ぶかです。
a)当然の帰結として、その教訓は、成長率を上げてgが少しでもrに近づく策を官民挙げてやることです。
具体的に何が出来るかです。先ほど述べた通り、日本のような先進国では、年率2%位の成長率を維持するのも大変ですが、それでも経済を成長させながら、ハイパーインフレにならないように、安定して成長できる仕組みを国全体で作らなければならないと考えます。国家戦略を、得意とする技術開発で世界をリードできるものにシフトする、これまでさほど真剣に取り組んでいなかった観光産業などへの取り組み、国の自然エネルギー資源をもっともっと有効に利用する先鞭をつけるなどです。gを高めることで、少しでも格差の縮小に努力すべきです。
b)働く人々の生活のスタイル、価値観を変えることも必要です。
成長で豊かさを享受することの限界も、彼の本から明らかになったことを我々は知りました。だとすると、成長を構成する要素たる所得の伸び率、投資の量や消費の量を尺度とする現在の価値観を変える時かもしれません。
所得や投資や消費の拡大量で測らない価値観です。それは、個々人がどのような生活を望むのかを、一度真剣に問い質すことにもなります。朝から晩まで仕事ずくめの生活で所得や消費の伸び率を競うことが、本当に皆が望むものなのかです。もし、それを望まないとすれば、その価値観を実現するために、働くことのスタイルや消費選択の幅を多くできる環境が日本全体に必要となります。仕事と余暇のバランスが叫ばれていますが、これも一つの流れです。所得や消費の量のみで測定せず、人々の生活の自由度と自らの能力や志を活かせるフレキシブルな環境づくりを、官民あげて取り組むべき時期ではないでしょうか。
c)ところで、国自体が滅んでは元も子もありません。
翻って、新聞などで国の財務状況を見ると、厳しすぎる現実があります。株式市場で民間の成長率の高さが叫ばれていますが、日本政府はGDPの二倍以上の債務を抱えて国自体は借金地獄の状態とのことです。
この状態でも、GDPの100%の金融資産と100%相当の金融以外の資産を持っているので、資産と負債は現在ほぼ釣り合っているから安心だという論者もいます。しかし、本当にその資産は安心できるものでしょうか。日本の保有する巨額の対外純資産、特に、金融資産の一つである外国の国債の価格の下落などで、いとも簡単に不均衡が生ずるとすれば、これは安心できない大きなリスクが内示していることになります。
この状態を抜本的に解決するには、所得の低い層に負担をかけないある種の税など、国民に評判の悪いことでも早期に着手しないと、将来のB氏に代表される日本人が大変な生活を強いられることになるのではないかと思うのは、私だけでしょうか。
第148回 トーマス・ピケティから学ぶ(1)
トーマス・ピケティ氏の本が話題になった直後、これを読もうと本屋さんで立ち読みしましたが、その分厚さに圧倒されました。かつてゼミで勉強のために読んだ(?)、読まされたケインズの通称「一般理論」よりも「厚そう!!」というのが第一印象でした。
そこで購入は諦め、沢山出ているピケティ氏の本の解説書を数冊読むことに切り替えました。有り難いことに、どの本も大変分かりやすく書いてあり、私にとっての論点が明確になりました。
1.私なりの論点整理
私なりに彼の主張を解釈すれば、論点の第一は、所得は「労働所得」と「資本所得」の和になり、この二つが平等に分配されないこと、第二は、このことがあるために、人々の間の格差が拡大していることと把握しました。上記の主張の帰結としての第三の論点、税に関する政策提言と整理されます。
2.格差拡大の比喩
上記の第一の論点との関連で第二の論点の主張になりますが、資本収益率(r)と経済成長率(g)の関係です。ここで、rがgより大きくなると富の分配で格差が拡大すると説いています。
ここで論理を勝手に個人のA氏とB氏の二人の関係に比喩的に引きなおしてみます。個人の投資からの収益率と個人の所得の伸び率の関係です。
投資を出来る余裕のあるA氏と、余り資金に余裕がなく毎月の収入で家計をやりくりしているB氏がいると想定します。A氏が余裕資金を使ってこれから投資する儲けの率が、普通に働いて生活の糧を得ようとするB氏の所得の伸び率を上まわれば、何年も経過するうちに、A氏とB氏の二人の格差が拡大していくと把握すれば良いと考えました。
rがgより大になるような条件下では、A氏の相続財産がB氏の生涯の労働で得た富より圧倒的に大きいものになると説いています。一旦生まれた資本は、生産高が増えるよりも急速に再生産していき、過去築いた財産が、働いて得る将来の収入を凌駕するまでに現在なっているとの主張です。
現実に海外で大資産家になりそこに住んでいる私の知人を見ると、彼の資産が一定水準を超えたある段階以降その資産がどんどん拡大していったように、私には見えました。A氏のグループに属する人です。大きな資産が背景にあるので、彼は大胆な投資をしていました。リスクを冒すことが可能だったのでしょう。資産の運用をプロに任せて確実に資産を増やしていったようです。他方、上記のB氏は、少額の貯金から大きな投資リスクを冒す決断をまずできない、ましてや、料金を払ってまでプロの運用担当者を雇えません。A氏と大きな違いが出てきます。
こうなると、A氏とB氏の貧富の差が更に拡大することになります。
3.資本と労働の関係
マルクスの「資本論」にも書かれていた通り、過去、資本と労働は衝突してきた事実があります。マルクスの発想の原点はこれです。また、格差の程度こそ当時とは違うとしても、今もこの二つは現実に衝突しています。
安倍首相が、企業で働く従業員の賃金のベースを上げるように経営者側に暗黙の圧力をかけ、実際に春闘で賃金のベースアップを労働者が勝ち取っているのを見ても、舞台の裏側で二つの衝突あることが推測できます。収入全体の分配、すなわち、収入の山分け方法を巡って、古来より必ずこの衝突が発生し、今も発生していることになります。
ただ、不思議なことに今回の賃上げは、マルクスが主張する労働者が闘争で勝ち取ったというより、「鶴の一声」が経済団体に響き、資本家が余剰利潤の一部を労働者に分け与えたとの印象を持つのは、私一人でしょうか。
いずれにしろ、交渉により資本所得の一部が労働所得に分け与えられたことになります。
4.何故、成長志向か
ここで我々が思いをめぐらせなければならないのは、何故、世の中がこんなに経済成長を叫ぶのかです。「成長なくして、デフレ脱却なし」というスローガンめいたことが、時の政府からも叫ばれていた記憶があります。経済の成長でデフレを脱却したとしても、これと国民の豊かさがどうつながっていくのかの素朴な疑問には答えていません。
ケインズは「一般理論」の中で、経済成長の結果、労働者の労働時間が大幅に減少して、労働者は減少した時間を人生にとってもっと大切なことに使うようになると考えていました。
しかし、現実は違いました。技術革新の結果、企業の生産性が向上したのは事実ですが、これを生活の豊かさに結び付けるために、国民は何を強いられたでしょう。沢山の時間を使い、より沢山消費する生活パターンが、国民の価値観として定着している現実を、ケインズはどう説明するのでしょうか。
ケインズには申し訳ないのですが、彼の論理を凌駕する経済学がその後出てきていない事情などから、皮肉なことに資本蓄積がある段階まで進みさらに経済が成長すると、B氏のような普通の労働者の労働時間がますます長くなり、以前より生活のゆとりが少なくなってきているように思えます。
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