心
経営者の「心の置き方」(1)
人間いろいろな生き方があります。また、同じ人間でも人生のいろいろなステージで本人の生き方や心の置き方を変化させる人もいます。
どの生き方が良い悪いというよりも、自分に適した生き方、特に「心の置き方」を探し求めていくのもこれまた人生、と最近考えています。蛇足ですが、私が関係している「ジョン万次郎から学ぶ会」の諸先輩理事の方々の生き方を垣間見るに、今も私自身「心の置き方」を学んでいる身です。
私がある会社の社長という仕事に没頭していた頃の私自身の「心の置き方」について、『これからの課長の仕事』(ネットスクール出版)の中で数年前一部披瀝したことがありますが、今回は、少し視点を変えて経営者としての「心の置き方」について述べてみます。
第一に、「目標実現にむけて仕事をする」心掛けを持つ
戦略をベースに事業目標や毎年度の計画を立ててもこれが必ずしも順調にいくとは限りません。私も約20年間の経営を通じてこのことを嫌というほど体験しました。
こういう場合、経営者の心の置き方がおかしくなってきます。どうしても他人を責めたり、感情的になります。感情が優先してしまい自分の感情やその時の気分を基準にして行動しやすく、結果として、施策の軸がブレはじめて会社という組織の方向性が全く不安定になり、社員も顧客も誰も幸せになりにくい環境が生まれてくるのです。私はこれを回避するために、できる限りその時の気分にとらわれない配慮をしました。
事業目標に向かって今やるべき仕事にどう取り組むかを最優先する「心の置き方」を持つ努力をしてきました。すなわち、事業目標の実現が遅れてしまうことがないよう、その時の気分や感情に害されず物事に対処できることに注力して、そのエネルギーを明日の糧にするよう心掛けました。こういう時こそ天秤の両側、感情と理性のうち理性の側に沢山の分銅を置く努力をしたのです。
第二に、「心の自由度」の幅を拡げる
事業の進展がはかばかしくなく、顧客とのトラブルなどが連発すると、そのことのみを考えて呪縛の落とし穴に落ちるリスクを秘めています。私自身そこから出られなくなったことがありました。
ある時期から、そうならないためにも心を開いた発想が必要とされることに気づきました。何か一つに心を固執しないで自由自在に変転できる心掛けに努力することです。逆に、手前味噌ですが、この心掛けをすることで全体の景色が良く見え、何か重大なことが発生しても逆に精神が統一し易いので適正な判断が出来た記憶を持ちます。
いつか読んだ宮本武蔵の『五輪書』でも敵に対峙した時、どこか一点に注意や目線を集中せず、相手の総体に万遍なく注意を払い、全体として穏やかな状態を作る工夫をすることについて述べられていたことを記憶しています。
このレベルまでは全くいきませんが、心構えとして「心の自由度」の幅の広さが経営者として必要だと考えています。このため経営者になるには禅の作法など自分に適した方法で「心の置き方」の鍛錬が必要になるかもしれません。
「農耕型企業風土」に根ざした強靭な組織
私が主張する「農耕型企業風土」づくりの経営は、一旦この企業風土を作り上げると、極めて強固な組織になります。私はこのことを約20年間の経営で実証してきました。詳細は、『これからの課長の仕事』、『これからの社長の仕事』(ネットスクール出版)に譲りますが、今回、その背景を一部述べます。
多チャンネル接点を持ち、助け合う補完機能があるから
まず、私が主張する「農耕型企業風土」に根ざした組織は、全体系が人間の心や集団の中で人間が本来あるべき姿を、仕事環境においてもできる限り実現することを基本とした経営組織です。しかも組織は多数の小さいグループで成り立つことを目指して、グループの長に相当な権限と自由度を託し、本人が一定の枠内でグループを自由にマネジメントできる組織です。
この組織はミドル・マネジメントを主軸として、多くのグループ間でお互いにチームとして支え合う、助け合うシステム体系で、ほかのグループとのチャンネル接点の入口が多数用意されていますので、どこかの小組織(グループ)に突然何らかの障害が生じたとしても、類似した経営をしている他のグループからの補助・補完により、そのグループが速やかに再生可能となります。
この補完機能が備わっていることで、全体が非常に強固な組織となります。
「リーダー任せ」の落とし穴にはまらないから
アメリカ流のマネジメントにはたくさん学ぶところがあります。
しかし、このスタイルのマネジメント経営だと、万一、経営リーダー機能が不全になった場合、全組織が多大な影響を被るというネガティブ面のリスクが大きいのではないかと考えます。日本に於いては、私の主張する「農耕型企業風土」づくりの経営のほうが企業の中・長期的な発展には適しているのではないかと確信しています。
極端な例ですが、リーダーは善で「社員はこのリーダーに従え」的な一元的発想による経営の場合、経営においてリーダーの機能に狂いがで出ると、たとえ法規制や諸制度の保護があったとしても、上述のような自主的補完機能がないために、経営上芳しからざる結果を招くことが多いのです。特に、「資本の論理」を全面に出す資本家的経営リーダーが経営者としてアサインされたときは、このリスクを大いに警戒せざるを得ません。
社員の知恵が仕組として生かされる「農耕型企業風土」のような経営組織が、先ほどのようなマネジメントには組み込まれていないからです。「農耕型企業風土」に根差した組織では現場の経験の集積が知恵の塊として存在し、これを生かす仕組があるので、万一の場合にも経営リーダー機能の一部をカバーする力があり、この点でも組織を強固にします。
効率至上の有害性が少ないから
人間が作り出すシステムで利益を追求する組織である以上、「効率」を重視するのは当然のことです。経営システムも然りです。しかし、これが行き過ぎると、経営システム全体が一部の特権的リーダー中心の単純化した仕組になりやすい、と私は考えます。
効率がキーワードであると、この言葉自体に論理的に大義名分があるので、なかなか正面を切って異を唱えるのが難しくなるからです。「効率」をキーワードにどんどん経営が単純化され、いわゆる経営の「遊び」の部分を無くしていくことこそが「良い経営」と株主からは賞讃されることになるかもしれません。
実は、ここに「落とし穴」が潜んでいます。単純であればあるほど、これが上手く作動している場合は良しとしても、何か経営のリーダーシップに狂いが生じた場合、経営システム全体が作動しなくなるリスクが大となる傾向があります。
私は経営に故意に「遊び」や「効率を阻害する」仕掛けを組みこませる努力をしました。それらの仕掛けが「人間の心」や「仕事と生きがい」の観点から本来人間という生命体が持っている自然な姿に近いものであると信じ、「遊び」や「効率を度外視した」仕掛けも併存的に組みこませていました。
組織として生きた状態、活性化した状態を永く維持するには、このことが必要不可欠なことだと約20年間の経営で学びました。
「農耕型企業風土」づくりに根差した組織について、更に詳しくお知りになりたい方は、私が書いた『これからの課長の仕事』、『これからの社長の仕事』(ネットスクール出版)を是非参考にしてください。
「強い集団」と「悩める人」
こういう集団になるようにアドバイスしていきます。
「強い集団」
第一に、「強い集団」は明確に定義された「理念」で支えられています。これが私のこれまでの経験の帰結です。
例えば、クロネコヤマトは、「世のため人のためになることをする」で意思統一され、「お客様のため、社会のための実現」を目指します。このため、配送の安さ、速さ便利さなどを追及していきます。以前関係している会社では、「サービスでリーダーシップ」として、サービスでNo.1を目指してサービス改革を標榜し、この内容を経営理念に明確に定義していました。
第二に、「仕掛け」も必要です。
感動体験ムービーで喜んでくれる顧客のシーンを何度も見る。「満足バンク」で満足ポイントが増える仕組みもどこかの会社で実践されている例を聞きました。いろいろなイベントで社員の交わりの場を設けるのも方法です。これらについては、「これからの課長の仕事」(http://sonoyama.ns-2.jp/)の記載に譲ります。
また第三に、課題が出るとこれをコンサルに委託するのでなく徹底して社内で議論を重ね自分たちで解決していく会社もあります。
一人の優秀な社員よりすべての社員がそれぞれの個性で考える企業風土をつくることを目指しているからです。「普通の社員が普通に仕事をする」会社を目指すことです。かつて、同様な方法で私が「燃える集団」づくりに成功したことに似ています。鈍才が多数をしめる集団を使ってよい実績を上げるのが経営です。逆に、優秀な社員を潰している経営を観るのは悲惨の極みで経営者の風上にも置けません。
つまり普通の社員が会社の将来を一生懸命に一緒に「考える」、「意見交換をする」ことを徹底していくことです。ある会社で提案し実施しているQCサークル活動もこのためです。
「弱い集団」にならないために
問題は、ここに示す「強い集団」が構築される前に、組織が「弱い集団」に成り下がってしまうケースが多いことです。
いろいろな理由がありますが、一番大事なことはその組織のリーダーがどのようなタイプの人かどうかです。
私が勝手に「悩める人」とカテゴライズしているタイプのリーダーがいます。残念ながら「悩める人」が引っ張っている組織は、ほとんどの場合、結果としては「弱い集団」に成り下がってしまうことが、私の過去の経営体験から証明できます。
「悩める人」
「悩める人」の共通点が以下のとおりです。
私の周囲にも結構いました。
まず、第一に、自分自身が何を求めているか、何を恐れているのかを知らない人です。
また、自分の位置を知らない、これが分からない人が「悩んでいる人」です。
たとえば失業して悩んでいる人は、実際は悩む暇などないはずなのに「悩み」を訴えます。
本来一生懸命に職を探さなければならないのです。自分の位置を理解していません。
経営で悩んでいる人は、実際は悩む暇はありません。経営を前に進める最善の方法を探さなければなりません。
第二に、人の助けに感謝する気持ちが全くなく、あらゆる物事を被害者意識で見るのも「悩んでいる人」の典型的な例です。時に、周囲の人に危害を加えることになりかねません。早く正常に戻すために、この場合は、まず医者に相談することを私は勧めています。早く治した方が本人も、ご家族も皆が幸せだからです。
第三に、「現実を拒否するのは非生産的である」ことを理解していない人です。自分の位置が見えないので、願望や思いだけを主張して、「今」が無い人です。
例えばウサギとカメの物語のカメです。他人に勝って「勝ち負け」を議論しても仕方が無いのに、自己不在のカメはウサギに勝とうと頑張ります。元来「自分はカメである」ことの自分の位置に自信を持つことから始めるべきです。自分の位置以外のところは他の人に助けを求め、助けてもらったら感謝することです。そして「今」の幸せに感謝すべきです。それなのに、現実を拒否している人です。
このような人に限って、自分の人生を「虚しい人生だ」と思い、思いとは別に実際はほとんど人生に迎合して生き、自分の軸がありません。甘えのみを良しとした生き方です。日常の生活に心の「心棒」が欠如しています。
「悩める人」の解決策
でも、「悩める人」にも今の辛さから抜け出す方法はあります。
「運」についてのカーソンの童話に、手品師が王様に牢屋に入れられ、そこから出る方法を考えろと指示された童話があります。実は牢屋の扉にカギがかかっていなかったので自由に牢屋から出られたのに、手品師にはそれができなかった。今の自己の力を過信して、狭い小道の中でさまよい全体像を冷静に考える余裕がなくなったのです。
成果をあせらないで自分の力を客観視すればできたことかもしれません。
日本人の精神性(2)
前回に引き続き、日本人の精神性を示すと思われる例示をします。
「無用の用」的なもので集団を維持する心
私の友人の竹村聡一郎君(株式会社コヨーテ)のコラムで、昔九州の炭鉱で働く人の中に通称「スカブラ」と呼ばれる人がいたということを読みました。
「仕事を好かんで、ブラブラ」が語源という説もあるようです。要は笑わせる役です。重労働に耐えながら働く炭鉱夫の集団に冗談など言いながらその場の雰囲気を作っていた人の話です。
効率化のためにこの人をその集団から外したところ、そのグループの生産性がガクッと落ちた旨の報告もコラムの中に記載されていました。
これを読んで私は「さもありなん」と、これまでの自分の主張の正当性にほくそ笑みました。日本人の集団の精神性が表れている事例と考えます。集団としての雰囲気とチーム力を大事にするための「無用の用」です。
私も経営経験で同様なことに遭遇しました。経済合理性をとことん推し進めた結果、以前より生産性が落ちる結果になったことがありました。
サービスを提供する集団においては、経済合理性以外の人間の心の部分への配慮が不可欠でした。人のモラールが重要なのです。
私は、このために、ルーチンの仕事の仕方に多少問題を持っていたとしても、場全体の雰囲気をいっぺんに変える能力のある人をチームの中に入れることで、どれだけチーム全体の生産性が上がったことか。この人の人件費を賄って余りある改善をみることができました。
東洋的死生観
「東洋的には、死生といい栄枯といわれまするが、ただ一つ気が消えたのが死であり枯であり、一つの気が満ちたのが生である。」(佐藤一斎、「言志四録」)
「生も一時のくらいなり。死も一時のくらいなり。たとえば冬と春のごとし。冬の春となると、おもわず、春の冬となるともいわぬなり」(正法眼蔵)
日本人の精神性とも関係があります。人生の生死のサイクルや死生観を言っています。
「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛?)
「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」(「はちすの露」、貞心尼)
などそれぞれの辞世の句と言われています。日本人の精神性を表した秀逸作品です。私もこの気持ちが少し分かる年代になりました。
青年団と掟、集団の知恵と独り立ち
忍耐と鍛錬を修練する「場」があったことを司馬遼太郎氏は、江戸後期に北海道交易で活躍した高田屋嘉兵衛を主人公にした「菜の花の沖」の中で淡路島の「若衆宿」のことを書いています。
縦社会で上の人の指示に従う村の共同体で、村のおきてを破る者は内部告発されます。その指示をどう実行したらよいかを自ら考える共同体です。
もちろん、今話題になっている「しごき」的部分があったことは否めず、「若衆宿」に100%賛成するわけにはいきませんが、結果として、成人として徹底して「独り立ち」するための指導をする部分は賛成です
司馬氏は、「街道をゆく」を書くために訪れた地域では必ず「若衆宿」を確認していたとどなたかが言っていたくらい、一人の独立性に関心を持っていたかもしれません。
日本人の安定志向
安定を望むのが日本人です。村の共同体の維持を優先します。元来ケンカを好みません。皆がまるく収まることが一番と考える国民性です。
この流れからすると、成果が残せないと収入が減る成果主義は元来日本人には向かない制度だと考えます。権限と責任をあたえ、自分で解決する能力、村を発展させる思考を身に着けなければなりません。
このことは、私が常日頃主張する「考える」ことに通じます。「常に考える」ことです。
脳の構造が違う
ある本でロンドンのタクシーの運転手は海馬が大きいと読みました。海馬が大きいと地理空間の案内を覚えるのが得意のようです。このことは人間の脳は人種によって違いがあることを意味する例です。
人の意思決定は95%位無意識に行われています。脳で決定した後0.5秒後には実践しています。山道でヘビに出会うと皆驚いて飛びます。無意識の判断の結果です。その後、「ああ怖かった」と。
脳の認知活動は感覚器官から脳に伝達された情報処理のボトムアップ処理と脳内に記憶された情報に基づくボトムダウン処理の二つにより行われますが、これも無意識に行われます。
驚くことのは、人種により「脳が違う」ということです。このことが最近知見されたようです。日本人は平均的に不安傾向が強く、また、包括的に全体を捉える傾向が強いようです。不安傾向は、セロトニン受容体を保有する人が多いからのようです。
セロトニン物質は最近健康商品で有名になりましたが、不安を制御する物質と関係あるとのことです。また、全体像把握との関係で言えば、金魚を入れた金魚鉢を観察する実験を行うと、日本人は全体像を印象強く把握するのに、アメリカ人は、金魚の個別の特徴に興味を覚えるようです。
日本人のマンガ好きとも関係があるのでしょうか?感性を重要視します。論理は後付けにするクセがあります。先ず全体のイメージを描き、その後にそのイメージを正当化する論理を仕立てあげる特性の一つでしょうか。興味ある部分です。
脳の構造を知ると、アンケートの主観的、言語的な一般的内観調査は限界で、人の思考を予測できる脳計測との組み合わせを考えるとさらに効果が増します。例えば、何かの商品で顧客に対して「好きですか、Aですか?、Bですか?」と聞き、回答者の脳の反応の強弱を観る調査機器があれば顧客接点はもっと緊密になるかもしれません。
日本人の精神性(1)
実は、前回コラムで紹介した二宮尊徳や上杉鷹山等の生き方に私が賛同できるのは、彼らの経営改革姿勢の背後に深く流れる日本人の精神性のどこかに共感するものがあるからかもしれません。
大和こころ
これを「大和魂」と呼ぶことがあります。「大和こころ」も「大和魂」も、誰の耳にも良い響きを持ちます。そもそも何でしょう。
この言葉を最初に使ったのは紫式部であるといわれています。源氏物語の「乙女の巻」には漢才-当時の中国の学問を学んでこそ大和魂は重んぜられるという表現があるようです。
平安時代に用いられたこの言葉は、漢学に代表される外来の知識人的な才芸や技法に対して、日本在来の伝統的知識、生活の中の知恵、教養を言ったとされます。漢意(からごろも)に対して作為を加えない自然で清純な精神性を言います。
「大和こころ」は、戦中、戦後は軍国主義的にみられていましたが、これは政治的に利用されただけで、大和こころの本来の精神性の意味は変わりません。
我々日本人のこころのどこかに日本の伝統を重んじ、二宮尊徳や上杉鷹山のように民のために一身を投げ出すという少し教条的ではありますが、自然で清純な気持ちが潜んでいるのではないでしょうか。私の心にも同様な精神性が潜んでいるように思います。
忍耐と自己鍛錬をする心
日本人は自己を磨く、そのために耐え忍ぶ性癖を持っています。この過程が自己鍛錬のやり方として象徴的に表現されることがあります。
自己鍛錬の例は、優れたスポーツ選手の事例が沢山挙げられています。「イチロー」選手など優れた野球選手がバッターボックスに入るまでを見ているとわかります。本人のしぐさや自分のゾーンに入る精神統一などを観察すると、その人の心の一面が見えるほどです。
あるレベルを超えるための自己鍛錬のから取得した精神統一法だと思われますが、われわれ日本人の精神構造に忍耐と自己鍛錬の仕組が組み込まれているということかもしれません。レベルは違うとしても、私自身も同様な精神構造を共有していると思えることがあります。
鎮守の杜と自然信仰
田舎にある鎮守の杜を訪れたことがあると思います。一歩足を踏み入れた時の冷厳でな気持ちや畏敬の念、自然への尊敬の心は、私のみならず大半の日本人の中に潜んでいると思います。
日本の首都、東京のど真ん中に江戸城という広大な自然林が残っていることを我々日本人は何の疑いも持たず普通に思っています。ヨーロッパの首都の真ん中に広場と教会がセットであるのとは大きな違いです。日本人は山川草木あらゆるところに神が宿ると考えています。古来日本人が抱いていた自然信仰と関係があるかもしれません。
自然界のどこかにいる神への畏怖の念を私も鎮守の杜で抱きます。
しかもこの時の自然に向き合う姿勢は対決でなく調和です。人間相手でも共存する手法を取ってきました。武力でなく言葉で服従を誓わせ平定する国譲りの記述も古事記にあるほどです。
「おかげさま」という感謝の気持ち
私自身「おかげさまで」との言葉をよく発します。別に意識しているわけではありません。自然に出るのです。
心学の開祖、石田梅挙は「先も立ち、我も立つ」と、利を共にする思想を説いたと言われています。「おかげさま」という感謝の言葉、直接何かをしてくれたわけでもない相手に感謝する気持ちは、この辺から生まれたかもしれません。
「おもてなし」の言葉もこれと関係があるのでしょうか?日本人が非常に大切にしたい言葉と考え方の一つで、「利他」と通じ日本人の底流に流れている精神性の一つと位置づけています。
包み込んで同化させる大きな心
日本では古来海外のいろいろなものを同化してきました。この日本に、百済から仏教が入ってきました。自然信仰の古来の日本に仏教を導入し、そこから沢山の知恵を学びこれを包み込んでしまいました。
神仏習合です。
日本の宗教は神か仏でなく、神も仏もいるととらえます。多神教というより汎神教です。英語という言語もジャパニーズ・イングリッシュとして、日本的なものに手直しした部分が相当あります。外国からの知恵も同化させました。
日本人の精神性の具体的な例として、七福神と風呂敷をあげる人もいます。
七福神のえびすは日本古来の神様です。毘沙門天、弁財天はインド起源の神様、大黒天はインド由来の神と日本の大黒様が習合したもの、福禄寿と寿老人は道教の神、布袋は中国の和尚と言われています。この神様達の源は違うとしても、彼らを一緒に宝船に乗せて福の神として崇めまつっています。ただし、日本人はなんでもとり入れたわけではありません。儒教はいれましたが、孟子の革命思想は入れませんでした。宦官や科挙も入れていません。
風呂敷に包みこむにあたってもきちっと取捨選択をしています。欧米各国に行くと、この風呂敷のように、中味に変えて変幻自在に包み込めることの発想の優秀さも感じるところです。これもある種の精神性とみなしてよいかもしれません。
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