「農耕型企業風土」づくり / コミュニケーション / 折々の言葉
第282回 集団の内側と外側の峻別
今回は、ビジネスと少し距離のある日本的風土を取り上げます。
「誠に申し訳ない」発言
最近よく耳にする政治家や官僚などがある嫌疑をかけられた時の答弁が、明らかに嘘とわかることが多くあります。そのような時の彼らの謝罪発言の中には、「世間に対して誠に申し訳ない」と決まった言葉が出てきます。セクハラに対して、その根拠は別としても自らは無罪と主張していながら、政治や世間を騒がせたことについては謝罪して辞任するという、このパターンです。
論理的に思考をする人には、これは不可解です。「何故、それなら辞任するの?」、「誰に対して責任を取って辞任するの?」と不可解に映ります。
彼らの発言の裏側にあるこの発想の根底にある世間は、実は社会ではありません。
ここに言う世間は、社会ではなく、自分が関わっている限られた人間関係のつながり集団だと解釈すると、先の答弁も実に分かり易い。
自分とのつながり
「俺は違う」と言う人もいますが、日本人には、「世間」の目を気にしながら生きている人が多いと思います。世間から後ろ指を指されないように、常に自分の言動に配慮しているのではないでしょうか。
ここでいう世間とは何か。この定義は先ほど述べた通り、一般的には、個人と個人を結ぶつながりだと解釈してはどうでしょう。
このつながりが個人個人を強固な絆で結びつけているのが、良い意味でも悪い意味でも、日本の社会に根づいている現実です。大学の同窓会、何々高校出身OB会、会社関係の年賀状など、形は変わってもつながっています。非常に大事なつながり、現実です。
内側と外の世界
個人個人のつながりを得た関係上、ある意味その代償として、世間には厳しい掟があります。
結婚式や葬儀での序列、何かを互助する際の金額の多寡など、我々が日常体験していることも、ある種の掟です。
しかも面白いことに、内部で掟を守ることと同時に、内部での競争は出来るだけ排除されることです。その世間に属していない人々に対して、排他的、差別的になりやすくなるのも事実です。
昔、出雲の田舎で部落の決め事のために行われていた定例の部落会は、内と外を峻別して内を守る掟のようなものがあったと記憶しています。
西欧の考え方との違い
前段で、日本でいう世間は社会を意味しないと言いましたが、西欧では社会と言う時に個人が前提となり、その個人は何人にも譲れない尊厳を持って、その個人の集団で社会をつくっていると解釈します。
西欧とひとくくりにするのは若干問題ですが、特に、キリスト教文明下では、絶対的な神に対しての個人と社会という関係が築かれており、ここにいう世間が登場しません。従って、個人の意思に基づいてその社会の在り方も変容してくることになります。
ところが日本では、世間は個人の意思によってつくられると言うよりは、世間がほぼ所与と見做されることが多いのです。
私自身、「独立自尊」を標榜して生活しているつもりでも、世間を意識しながら生活しているのが偽らざる気持ちです。私の中では、世間と社会を意識する精神性が両立しているのではないかと推量していますが、知らず知らずのうちに出雲の自宅の部落会の行事が頭をもたげ、世間から排除されないように日常の言動に気を付ける習慣が身にまとわりついているのではないかと思うほどです。
「農耕型企業風土づくり」の経営
私が日本での経営には「農耕型企業風土づくりの経営」が適していると主張しているのも、このような背景があります。
日本人の性格に影響を与えた最大の要素は、稲作農耕を基盤としてきて生活してきたことです。稲作には水が不可欠で、川上の村と川下の村の水争いがよく起きました。これを避けるため、普段から村同志が共同体を形成して部落会で話し合い助け合っていく方法がとられました。内側を結束させ強めることで自分が属している共同体を維持しようとする思想が根底にあるのです。
水で結ばれ、土地で結ばれた村落共同体では何事も全員の賛成の上でことが行われ、村のリーダーの一番の仕事は意見の違いから起こるいざこざや反対者を「丸く収め」、世間に迷惑を及ぼさないことだったのです。
このような風土を背景とする限り、日本では周囲と折り合いを上手くマネジメントして、競争社会という世間で生きるほうが成功しやすいのではないでしょうか。
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