遊び心
閑話休題
東洋思想家の境野勝悟氏が、あるテレビ番組で道元について語っている中で、以下の唄を自ら唄われる場面を拝見しました。心が洗われる感じがしたことを思い起こします。
春は花
夏ほととぎす
秋は月
冬、雪さえて 涼しかりけり
自分で謡のごとく節をつけて唄うと、今でも心が穏やかになります。今の季節がら、特に、「春は花」の部分の響きが何とも言えません。
ご興味のある方は、お試しください。
忘れがたい歌(2)
私にとって「忘れがたい歌」の続きです。
「旅の終わりに」
三つ目が、「旅の終わり」です。
冠二郎が歌っていますが、ある会社の経営を引き受け、その立て直しや戦略立案で悩みに悩んでいた頃知った曲です。私の慰労のために、ある会社の役員が私を飲みに誘ってくれました。私は自分で歌うのはからしきダメな方ですが、他人の歌を聴くのは大好きです。その役員が選んだ曲がこれでした。この曲が彼のカラオケの定番だったのです。
彼の歌う歌詞がカラオケ本のものと全く違い、胸にズキンと響くその歌詞が忘れがたいものでした。聞けば、その歌詞は戦争中にアジアの各地を転戦して戦った日本の兵隊が夜ともなると故国や故郷をしのんで歌ったものだとか。
私には経営再建の苦境の中、自分のことを歌っている曲に聞こえました。歌詞をメモしていただき今日もすべて記憶しているほど、「流れ流れて、落ち行く先は、北はシベリヤ、南はジャワと、何処の土地を墓所と定め、何処の土地の土と還らん」とその歌詞に感銘を受けました。
この会社で社員のために自分の命を捧げる、という心境と覚悟を鮮明にしたのがこの頃です。好きな歌詞です。この歌も私の人生のなかでひとつの転機だったかもしれません。
歌ではないのですが、忘れられない曲があります。
「1812 Overture」
『これからの課長の仕事』(ネットスクール出版)で記載のとおり、メンデルスゾーンの「讃歌」や「スコットランド」も私の好きな曲と紹介しましたが、ここでは想い出深い曲を挙げます。
「1812 Overture」です。チャイコフスキーの曲で、私がAFS生としてアメリカの高校に留学した時、ホストファミリーからクリスマスプレゼントとしていただいた一つがこのSPレコードで、今でも大切に保存しています。
『祝典序曲』ともいわれ、1812年ナポレオン率いるフランスはじめ同盟軍がチャイコフスキー自身の祖国ロシアを侵略、いわゆるナポレオンのロシア大遠征の情景をロシア側にたって描いたとされる歴史的序曲です。曲全体の流れの優雅さと大砲の音なども交え、なんとも言えない力強さがいろんな楽器で鮮やかに表現されているように感じます。この遠征でナポレオンは初めて大敗北、さらにその翌年の1813年にドイツのライプチヒでヨーロッパ同盟軍に敗北し、数年後にナポレオンが島流しになるターニングポイントの戦いです。「Overture」としたのはそれが理由だと思います。
この曲に出会ったのは16歳のころでした。異国で日本を代表するとの自負をもっていた自分と、恐れ多くもこの大作曲家の祖国ロシアを思う心情とをダブらせて考えていたかもしれません。日本人がほとんどいなかったこの地域で、当時の私の心の支えになった曲ともいえます。
「パリは燃えているか」
もう一つは、加古隆氏が作曲した「パリは燃えているか」です。
この曲は、私が経営を託された会社が、店頭公開を終え上場の準備をしていた頃、社内で作ったDVD(冒頭に紹介)の中の曲です。社員全員が「燃える集団」となり会社が大躍進を果たしていた頃に作ったものです。役員の齋藤君が会社の過去の歴史をまとめつつ社員の士気を鼓舞するために、いろいろな曲や映像をアレンジして造ったDVDの中にある曲の一つです。
さすが、ピアノの詩人と言われた加古氏の曲です。彼の作品の中で「黄昏のワルツ」も好きな曲の一つですが、この曲はなんとも想像力を喚起する曲で、す。私自身この曲を聞くと今でもこの頃の大躍進を引っ張ってくれた社員の顔、「燃える集団」を思い起こします。
皆さんにも「忘れがたい歌や曲」があると思いますが、本日は私の「閑話休題」として以上挙げさせていただきました。
忘れがたい歌(1)
この所ずっと経営に関することを書いてきましたが、ここらで「閑話休題」です。頭のスイッチを切り替えます。私の思い出の歌、曲のことについて書きます。
2013年の夏頃、あるTV番組で日本の昭和から平成を歩んだ時代背景とその時に流行った歌を比較して、歌のメッセージ性を説明していました。言われてみれば、聞く歌の中に「なるほど」と思えるメッセージが多く見受けられました。
私は安保闘争から全共闘時代に青春を謳歌してきた人間です。ある意味で「闘う」時代を生きた人間です。したがって、「神田川」など1970年代のフォークソングを今聴いてみると、音楽に何となく「闘う」という姿勢が失せており、個人的には少し残念に思う反面、こじんまりした安らぎを求める優しい内容に安らぎを覚え、時代変遷がもたらした変化をまざまざと感じます。
1995年頃、その少し前に流行った中島みゆきの「時代」の「まわるまわるよ時代はまわる・・」の歌をバックミュージックに加えて、自分が経営を任されていた会社の歴史を編集制作した社内限定版DVDを持っていますが、この頃も既にがむしゃらに「闘う」時代から明らかに安らぎの時代に変わってきたことがDVDに鮮明に表現されています。
人間でもそうですが、国も会社もある種の時代背景の中で生かされ、成長から成熟段階に向かっていることを、このような歌が間接的に表しているのではないかと思います。
「カスバの女」
歌のことで言えば、思い出深いものが沢山あります。その中でも自分にとって忘れがたいものをいくつか挙げます。
1983年ごろだったと思います。アメリカのテキサス州、確かサン・アントニオのある酒場です。何かの仕事でそこに行ったはずですが、その背景は覚えていません。
酒場というかレストランの奥にピアノが一台あり、そこでピアノを弾いている男性がいるのを垣間見ました。このレストランに入った時にはこの男性の存在を全く気に留めていませんでした。自分自身何か考え事をしており、いろいろな曲が弾かれたはずですが、それらも覚えていません。
ところが、ある曲が弾かれた時、「え?何故、このアメリカでこの曲が?」と不思議を通り越して頭の中が真っ白になってしまい、その曲のことしか記憶していません。流れてきた曲は「カスバの女」です。レストランの中にいた多数のアメリカ人には何も関係がない歌だと思います。でも、私は「アメリカでこの曲を聴くとは?」と感銘というか何故かキツネに騙された感じがして、食事を止めてこの曲に聞き入りました。
帰り際にはさらに驚くことがありました。よく見ると東洋人と思われる人がピアニストだったので、お礼のチップを差し上げようと話しかけたところ、なんとそのピアニストが作曲者本人であることが判明したのです。お名前は忘れました。「自分の曲で売れたのはこの一曲です。生活のために今アメリカでこのような仕事をしています。」という主旨の話を聞くに及んで、心の中で涙が止まりませんでした。
私も日本人として、外国人に負けずに「頑張らなくては」と妙に日本人魂が奮い立ったことを記憶しています。
「真珠採りのタンゴ」
もう一つは、「真珠採りのタンゴ」です。
1977年頃、フィリピンに仕事の関係で出張していた時のことです。本島、マニラのアラヤ地区からミンダナオ島のインドネシアに近いカガヤンデオロというジャングルの中の小さな町にもよく出向きました。
ある時契約交渉をマニラで行うため、ミンダナオのこの辺鄙な場所からマニラに戻り、ホテルの大きなロビーの横のレストランで、一人で食事をとっていると、男女の一群がロビーフロアーで優雅にタンゴを踊り始めました。特に、「真珠採りのタンゴ」の曲に合わせて踊る美しい姿は印象的でした。
ところが、少し時間が経ってから、突然周囲がざわつき始め、曲とダンスが終了してしまいました。 「スペインのフランコ総統が先ほど逝去された」と知るまでにしばらく時間がかかりました。時代は流れているとはいえ、かつての占領国の総統です。かつて自国を占領した国家の総統が亡くなった時の、現地の方々の思いは複雑だったはずです。
私にとっても、この曲を聴くと、かならずフランコ総統の逝去と、第二次世界大戦の残滓が消えうせた事実を鮮明に思い出す珍しい曲です。
紫陽花の一首から天平の世を見る(2)
前編で橘諸兄の歌を紹介しましたが、今回はその続きです。当時の時代背景を知ると、詠まれた歌の本当の意味が浮かび上がってきます。
「壬申の乱」の当事者となる二人、天智天皇と大海王子(天武天皇)が詠んだ歌も万葉集に残っています。しかし、編者が意識的に削除したのかどうか、当時の闘争を匂わせる歌はありません。
その中でも大伴家持や額田王などの歌には、この闘争を若干推察させるものも存在します。中でも、先に挙げた橘諸兄の紫陽花の花を組み込んで詠んだ歌は異色と思います。
「壬申の乱」は日本の歴史においても稀にみる内戦でした。
苛烈を極めた権力闘争を勝ち抜いた天武天皇の時勢には藤原一族が牛耳り、それにたてつく役人などは徹底して排除、左遷されたと言われています。
先の橘諸兄と同族の一派かどうかは不明ですが、藤原一族の横暴に対して橘奈良麿という人物が「橘奈良麿の変」で藤原仲麿に謀反を起こそうとしたのですが、橘奈良麿が最も信頼していた側近の告げ口によりこれが事前に発覚、橘奈良麿は殺害されてしまいました。
有名な大伴家持も左遷組で、北越から都の奈良に戻ることを願望していたのに印旛の国へ左遷され、腐った毎日を送った役人の一人です。酒浸りの中、地方から奈良の都を懐かしく詠んだ歌があります。
彼は藤原一族に対して中立を保っていたにも拘わらず、42歳で印旛の国に左遷されたようです。その後、68歳で逝去するまでの歌は一首も残っていないそうです。万葉集に編纂された彼の歌はすべて、42才以前のもので、彼の落胆の度合いが分かります。
最後に、「壬申の乱」との関係で額田王の歌も面白いです。
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
これは皆様学校で習った歌です。
万葉の時代、毎年5月5日には薬狩りと称して薬草を摘み、鹿などを追う行事があったようです。
場面は滋賀県の近江の蒲生の野原です。
額田王は天智天皇と、彼の弟である天武天皇との両股を掛けた色恋沙汰の本人です。野原での薬草摘みの場面でかつての恋人に会いたい、でもこのことを誰かに気づかれることを懸念した心の混乱がこの歌からにじみ出てきます。
彼女が、先に述べた「壬申の乱」の一因との説もあるほどです。エビデンスが無く証明はできませんが、この歌はそのことを何となく匂わせるものです。
今の季節の花、紫陽花から天平の時代を推察しました。
紫陽花の一首から天平の世を見る(1)
久しぶりに万葉集を紐解いてみました。
万葉集5416首の中に花を材料にして詠んだ歌が沢山あることを知っており、花と歌(首)との関係に興味を持ったのがきっかけです。歌が詠まれた時代背景の中で作者が置かれていた状況を思い浮かべ、歌の中に状況がどう反映されているのかを勝手に読み解く楽しみがあります。
今日は紫陽花について書きます。私が大好きな梅雨頃の花です。万葉集に選ばれた5416首の中で、紫陽花について詠んだ歌はこれ一つ、橘諸兄の一首のみとのことです。
紫陽花の 八重咲くごとく やつ代にて いませ我が背子 見つつ偲ばむ(橘諸兄)
万葉の歌は男と女との関係を詠んだものが多いのですが、この歌は男が他の男の状況を思い浮かべて詠んだものと想定されます。内容的には紫陽花という花とは似ても似つかない恐ろしいものです。
「紫陽花の花が幾重にも咲くように、いつまでも元気でいてくださいよ。私も気をつけますから」、という内容と思います。これだけの解説だと、友人の健康を祈願した歌で何の面白味も無いものですが、詠んだ人や詠まれた当時の状況を知ると、この一首にはある種の暗号めいたメッセージが盛り込まれていることが分かります。作者の橘諸兄が、紫陽花の花が咲く家で彼の友人の男性の身を按じて詠み、この一首を届けたと考えられます。
それではこの歌は、どのような状況下で詠まれたのでしょうか。「壬申の乱」(672年)の頃の日本の中心地、奈良の都では権謀術数が渦巻く世の中であったと想像します。時代背景としては異母兄弟の大津王子(天智天皇)(兄)と大海皇子(天武天皇)(弟)を頂点とする一派間の権力闘争の真最中で、暗殺まで横行していた時代です。
大津王子は蘇我入鹿を殺害し、645年に藤原鎌足と「大化改新」を実行、その後百済の復興を企画して「白村江の戦い」で敗戦。ついに「壬申の乱」で大海王子(天武天皇)一派に敗れ、大津王子(天智天皇)は自害。
天智天皇一派の時代になり、政務の実権は藤原仲麿に移りました。反藤原一族のこの歌の作者、橘諸兄は政争の渦の中で、どちらかと言えば藤原一族の暗殺団に狙われる立場であったかもしれません。暗殺回避の連絡のために詠んだと思われます。橘諸兄は左大臣まで努めた実力者でしたが、その後左遷されたようです。この歌に詠まれた彼の友人は生きながらえたかどうか分かりません。
万葉集の編者がこの一首の隠れた意味を推察できずに選んだかどうかは分かりませんが、幸いにもこの歌が残っていたことで、我々は当時の生々しい時代背景の一端を知ることになったのかもしれません。
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