


折々の言葉
第260回 苦悩した凄いリーダーの業績と言葉(2)
前回からの続きです。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス
西暦121年ローマに生まれ、161年第16代のローマ帝国の皇帝に即位。180年に伝染病で逝去した人物です。享年58才だったということになります。
賢帝の治世
実は、彼の治世は多難続きでした。
パルティアとの抗争により軍人が天然痘をローマに持ち込み、それが蔓延、ゲルマン人の侵入など多くの対外的問題を抱える一方、国内ではキリスト教勢力の拡大、食糧難による飢餓、反乱の発生等、ローマは難題山積みでした。
アントニヌスは内憂外患に陥るローマ帝国の安定化に努めた皇帝で五賢帝の時代を築いたほどの人です。一方で後継者指名に禍根を残し賢帝も彼の治世をもって終了したので、皇帝としての評価が分かれるところもあります。
皇帝として仁の政治を敷き国民から信頼と愛情豊かなサポートを集めて慕われた皇帝と言われ、彼の死後1世紀にも渡りローマの多くの家では守護神の一人として彼を祀ったという伝説的な皇帝です。
政治的な業績はいろいろなところで紹介されていますので、ここでは割愛させていただき、読書と瞑想にふけることを好んだ彼が公務の傍ら、心に浮かんだ自らの考え、思想や自省自戒の言葉などを断片的に書き留めたものの中から、私が過去経営していた時や現在も、個人的に参考にしている言葉を数点以下に紹介します。
「自省録」からのヒント
その言葉は「自省録」として世の中に伝わっており、彼が精通していたストア哲学が思想背景にあります。イギリスを代表する哲学者、J・S・ミルは「自省録」を「古典精神のもっとも高い倫理的産物」と高く評価したと、ある書物に記載してあるほどのものです。2000年も前にこのような人が書き残した言葉の奥には驚きの一語に尽きる内容を秘めています。
私自身、約20年の経営の折々に自分が経営上大事だと思っていたことを『折々の言葉』に書き留めておりました。今思うに少なからず皇帝の言葉に影響され、類似した内容を書き留めていた部分があることを喜んでいます。
・「何人にでくわそうとも、直ちに自問せよ。この人間は、善悪に関していかなる信念をもっているか」
私の言葉で言えば、「誠実に生きる人か否かを見極める」ことに通じています。信念なく誠実でない人は、善悪の判断や行動に私欲が出すぎるのではないでしょうか。経営の過程で遭遇したあるディールで私もこのことを知ることになりました。
これに悖るような行動を選択した幹部社員もいました。その人の後半生が、胸に刺さった刺を気にしながらの人生になっているのではないかと、私は気にしています。
・「目標に向かってまっしぐらに走り、わき見をするな。生きている人間にとっても、賞賛とはなんであろう。せいぜい何かの便宜になるくらいが関の山だ。」
「隣の芝生の青さや他人からの評価を気にするな」と、私は言っています。脇見をしたり、周囲の評価を気にしながら経営をするようでは、経営の「軸」がぶれて立派な経営が出来なくなることを、経営指導時にアドバイスしています。
・「人が失いうるものは、現在だけである。我々は急がなくてはならない。それは、単に時々刻々死に近づくからだけではなく、物事に対する洞察力や注意力が、死ぬ前に既に働かなくなっているからであう。」
「今を大事に」、「今を一所懸命に生き抜く」と、言い換えています。今を生き抜く過程で、経営の洞察力や先見性が磨かれていくのではないでしょうか?
・「よし君が怒って破裂したところで、彼らは少しも遠慮せずに同じことをやり続けることであろう。」
リーダーとして我慢も大切です。部下の大きな失策に激怒して叱責しても、余り生産的ではないことが多いです。それよりも、彼が二度と同じ過ちを犯さないようにリーダーは導かなければならないと諭しています。但し、金銭に関わる過ちを犯す人は、その人のクセに根差すところが多いので、その指導が結構難しいことを私は経営上体験しました。
・「いかなるところと言えども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠れ家を見出すことはできないだろう。中略。であるから、絶えずこの隠れ家を自分に備えてやり、元気を回復せよ。そして完結であって本質的である心情を用意しておくが良い」
自らの心の持ち方、精神的安定性がないと立派な経営ができないことを、身をもって体験しました。特に、重要な経営判断の時にしかり。
・「君の不幸は…何が不幸であるかについて判断を下す君の能力の中にある。」
自分自身の責任がどこにあるかを常に自省することは経営者ならずともビジネスマンに全て共通することではないでしょうか。
私自身も他の凄い人の言葉に加えて、アントニヌス皇帝の言葉も経営上の自省として大いに参考にしていました。ご参考になりましたでしょうか。
第259回 苦悩した凄いリーダーの業績と言葉(1)
世の中には凄い人がいたもんだ、とつくづく感激することがあります。
今回は全く違う分野の二人を紹介します。というより、自分自身が、このような凄い人の業績や言葉を爪の垢を煎じてでも飲みたい、経営や人生の参考にしたいと思っているからです。
伊奈(半左エ門)忠順(タダノブ)という人物
ご存知の方もいるかと思います。彼の働きぶりには本当に感動しました。世の中に彼のような人物が沢山いたかもしれませんが、今回はこの代官を取り上げます。
徳川幕府、綱吉将軍の時代の末期、江戸では元禄文化を謳歌していたこの時代に、彼は御殿場付近の御厨地方の代官でした。
実は、大分前に新田次郎氏の『怒る富士』(1974年出版)を読んだ記憶があります。新田次郎氏は富士山の気象所に勤務した経験を持ち、地元の人々から伊奈忠順のことを聴いていたので、この小説に著したのではないかと推測します。しかし、若気の至り、当時はこの本にそれほど感銘を受けていなかったようで、余り記憶に残っていませんでした。
ところがこの9月、テレビのある番組で彼のことが紹介され改めて彼の偉業に気づいた次第です。個人的には富士小山の付近でゴルフをすることが多かったので、余計親近感を持って彼のことを調べました。
伊奈家は代々土木技術、測量術、算術に秀でた一家で、玉川上水の工事を担当したのも祖先の伊奈忠治(3代目)、忠真(4代目)などで、忠順はその子孫で7代目にあたるとのことです。
忠順(通称、半左エ門)の苦難と賞賛の仕事ぶりは、宝永4年(1707年)に宝永の大地震に続く富士山の大噴火(800年の延歴の大噴火、864年の貞観の大噴火に続く富士山の3大噴火の一つ)による大災害が浮き彫りにすることになります。彼自身の人生でも全く想定外だったのかもしれません。
富士山の大噴火
宝永4年10月28日の富士山の大噴火は、直前の大地震に続くものです。今のスケールでは、地震のマグニチュードは8.6~8.7という凄まじいものだったようで、その震源は最近話題の南海トラフだそうです。この大噴火の時、富士山の南東の地域は小田原藩に属していました。
それなのに、何故、幕府が登場し、半左エ門を復旧工事と被災者の救済のために現地に代官として派遣したのでしょうか?
大噴火の数年前から日本列島の地殻が大きく変動していたようで、江戸幕府は度重なる天災で財政難の極み、幕府の勘定奉行(今の大蔵大臣)萩原重秀は歳出の削減を図っていた時期でした。
御厨地方の大被害に対応できない小田原藩は、領地を幕府に返却
小田原藩の10万石の領地の6割にあたる駿東郡・足柄下郡・上群が噴火による火山灰で埋まってしまいました。小田原藩は自力での復興は無理と判断し、この領地を幕府に返上してしまいました。
そこで幕府が直接指揮を執ることになります。幕府は半左エ門の過去の実績を評価し、彼に現地派遣の白羽が立ったのだと、私は理解します。
半左エ門の運命が大きく変わる契機となった時期です。
富士スピードウェイ近くに火山灰堆積の保存現場があります。スコリアと呼ばれる軽石の堆積層は約3メートルで、ゴルフの帰りに保存現場を立ち寄り見学した時には、私も本当にびっくりしました。
100キロ先の江戸でも6センチほどの灰が積もり、風が東方面に吹いたために千葉でも灰が相当積もったとのことです。落花生しか耕作できなかった痩せた土地になったのも、この降灰が影響しています。未確認ですが、江戸にいた新井白石が『折りたく柴の記』に真っ黒な空、雷、降灰のことを、恐怖心を交えて記載していると言われているほどです。
富士山の付近でのこの災害に対して財政難の幕府は何もできず、その状況は目を覆うばかりであったとテレビで報道されていました。もっとも被害の大きかった駿東郡足柄御厨地方へも幕府の支援は行われず、59の村が「亡所」とされ放棄されてしまうほどでした。沢山の農民が餓死したと言われています。
噴火での死者は少なく、噴出した溶岩石による火災や降灰、洪水などによるその後の食糧不足で餓死者が2万人出たと言われています。
東海道の大動脈を酒匂川が横切っています。富士山の噴火で、また噴火の灰が大量に酒匂川などの川に流れ込み水位上昇による堤防が決壊し、水没する村が続出した状態でした。
義援金の流用
早期復興を目指した治水工事のためには、カネと人手が必要となります。大量の木材も当時は必要です。
このため幕府は被災地を幕府領化した後、諸国に義援金を要請、復興資金として各大名から強制的に義援金を集め復旧に着手しました。
ところが半左エ門が推薦した地元の建設業者を幕府は使わず、裏取引で江戸の業者のみが入札獲得する状況。また、悪徳商人が木材を供給不足状態に操作し大金を手に入れる。今もどこかで耳にする話が当時からあったようです。
義援金の一部は江戸城の大奥の改修工事などに流用されたり、29年ぶりに日本にやってくる朝鮮通信史の使節団の接待などに60万両の金を使われたりし(しかも皮肉にも半左エ門が接待担当に任命された)、伊奈が治める御厨地域には義援金が回ってこないという状態でした。
義援金の半分しか復興に使われなかったと言われるほどです。
一部の大名は復興を権力闘争に利用したため半左エ門がどんなに頑張っても復興は遅々として進まず、1711年、すなわち宝永大噴火から4年過ぎて被災地への関心が下がる一方になってしまいました。前年にはどうにか1万両単位の支援があったものも、その後滞りがちになる。半左エ門自身も6千両私財を投入しても焼け石に水。
この頃幕府の勘定奉行がすべての権限を握り、そのポジションに後に新井白石により弾劾され失脚することになる荻原重秀が就いていました。江戸の三大改革の一つ、徳川吉宗の享保の改革が行われる少し前の時代です。
我慢の限界で半左エ門の取った行動
それでも半左エ門は我慢をして奉行として職務に努力していましたが、現場視察で農民の困窮を目の当たりにすると、これまでの幕府の路線に憤りを覚え、遂に江戸幕府の荻原重秀に陳情するに至りました。このこと自体が当時としては異例中の異例。
それでも幕府が動かないと知るや、今度は伊奈家の取りつぶしを覚悟で救い米と称した緊急用の幕府の米倉(小田原6万石で駿府に倉があった)を開けさせ、農民への施しをしたと言われています。農民の一部は餓死せず冬を越す事が出来た。
幕府側に立つのでなく、良心に従って農民側に立った、しかも違法に近い行動を、半左エ門がとったことになります。
この行為を幕府の目付にとがめられて、最後は自害(病死の節もあり)する羽目になりました。御厨地方を含む山北や小山では灰が積もって農業が不可能になっていましたが、彼の知恵で軽石の山の土を「天地返し」の作業で元の土に戻すことで正常に農業をできるようになったと言い伝えられています。
彼の遺徳をしのび小山町須走に「伊奈神社」が建立されました。
後日談ですが、資金を工面し半左エ門などが復興に尽力して20年も経っても御厨地方は復興できない状態が続きました。その後、大岡越前守忠相に見出された田中休愚が徳川幕府の命を受け、享保8年(1723年)から御厨地方の本格的復興にあたって今日に至ったとのことです。
第258回 経営視点を変える(2)
前回からの続きです。
急降下を止める策
この急降下を食い止めることができなければ、残念ながらその会社は衰退の一路を辿ることになります。そうならないための策を数点あげると、
・自社のドメインを再定義してみる
環境の変化によって、既存のドメインでの商いは顧客や消費者にとっての魅力が乏しくなっている場合が多いです。
魅力の乏しさの背景には会社側の事情に起因するいろいろな理由があるはずです。それを調べ上げ、新しい環境に適合するようなドメインに再定義してみると、意外に自社の強みを充てられるマーケットが近場にあることに気づくはずです。
・現場視点での新たな創業を目指す
急降下しそうな会社には、創業時のやり方が何時でもベストである、それに従っていれば問題ないとの時に根拠の乏しい信念めいたものが会社内にまかり通っていることが多く見られます。
これを打破するには、新たな創業のためのプロジェクトを立ち上げるのも方法です。ただし、この時留意すべきは、現場の第一線のメンバーを多くし、創業時のメンバーをなるべく少なくすることです。
多勢に無勢でどうしても新しい意見が通りにくくなることを避けるためです。特に、創業経営者の場合、ご留意ください。本人が意図しなくても、結果として、自分が創業した時の昔の戦略や方法論に誘導しがちになるからです。自社の現場の社員から新たな創業の意欲と戦略が自由に出てくるように導こうとの思いがあっても、それと逆行する結果を招きかねないからです。経営者としての器の大きさが試されるときとなります。
・成長を引っ張るドライバーを再チェックしてみる
成長している限り、どの会社も成長を引っ張ったドライバーがあったはずです。ところが、環境が変化するに従いそのドライバーの効き目が悪くなってきていることに気づいていないかもしれません。競合が新たな、しかも強力なドライバーで自社のマーケットに入り込んできたかもしれません。
それにも拘わらず、古めかしいドライバーで競争をしていたのでは、会社の成長が鈍化、もしくは、急降下するのは当たり前です。むしろそのことに気づくのが遅すぎたとみて至急ドライバーの再チェックが必要です。
ドライバーを再吟味するには、冷静で客観的視点が重要です。
「創業時は・・・だった。なのに、・・・」云々の議論は参考にはなっても、マーケットで今後戦うのに未だ「勝てるドライバー」であるか否かは疑問です。新しいドライバー探しが急務です。そのためには、冷静で客観的な視点を持った議論が重要です。これまた、創業時のメンバーの比率を少なくして議論したほうが、客観的視点に立てるという意味で生産的かもしれません。
・閉じる、強化する事業を明確にする
どの会社でも見られるケースです。成長過程で事業に手を広げすぎた部分がある。その場合、再度、自社のコアの事業に特化する。加えて、本当に自社の成長を引っ張る可能性を秘めた事業には、重点的に投資するメリハリの効いた治療も必要となります。
この時留意したいのは、「閉じる」部門のメンバーの処遇です。この対応を誤ると、タメにした作戦がかえって自社の急降下を加速することになりかねません。部門のリーダーが
業績不振の責任をとるのは当然としても、部員に関しては彼らの能力を他の部門で生かす策を考えておいた方が良いかもしれません。論理を重んじすぎ、人の情の部分を完全に割り切った方法は、逆に企業風土づくりと将来の成長に禍根を残すことになりやすいからです。
・「顧客視点」を実践している現場社員に重きを置く
急降下を食い止めるには、自社の顧客を維持するのが一番重要な施策です。
これができるのは、現場の社員が健在だからです。彼らが急降下を止める使命感に燃え「何とかしなければ!!」と歯を食いしばって頑張ってもらう。これがないと会社は沈没の危機に瀕します。
このためには彼らのモラールマネジメントが重要です。
顧客と現場社員を起点とした改革につなげていくには、彼らのモラールを高く維持していかねばなりません。
「彼らが会社の将来を担っている」、「顧客を維持しているのは最前線の彼らである」旨の強力で偽らざるメッセージと行動が経営陣から現場社員に肌感覚として伝わるか否かがポイントです。社員一人一人が顧客維持のための知的ワークを自律的に遂行してもらうためです。
・抜本改革のため、例えば非上場化する
上場会社で急降下のシグナルが出てもこれを食い止めることが困難な局面では、事業の閉鎖、売却等組織全体の抜本改革を必要とすることが多いです。規模の拡大に伴い官僚主義が跋扈して組織運営が機能不全に落ちてしまった、改革への貴重な人材が流出したなど、過去の成長ドライバーの力が完全に削がれてしまったケースでは必要となります。
このような場合、上場を維持するメリットももちろんありますが、時間をかけないで改革路線を進むには非上場化も重要なオプションになります。ただし、多数の利害関係者を説得するに値する「その後の会社の姿を」明確に描き、それを実施できる裏付けデータを伴わなければならないことは論を待ちません。
皆さんの経営の参考になれば幸いです。
第257回 経営視点を変える(1)
いろいろな企業のアドバイスをしていて気づくことがあります。経営上、非常に重要な事なので今回このビジネスコラムで取り上げることにしました。
経営視点を変更
持続的な成長を遂げるには、会社の成長過程の各ステージで経営視点を変える認識を持ち、これを実践していくことが時に必要であるにも拘らず、これを分かっている経営者が意外に少ないのが残念です。
創業時の苦しい時を乗り越えた視点は、それはそれとして大事ではあっても、これにずっと拘泥しても解決できないことが多いということを教わっていないのです。経営者から過去の苦労話ばかりされても、直近に入社した社員からすれば、その苦労体験をもう一つ素直に受け取れないことが多いのもその一例です。
私自身も会社の経営の過程で、この認識のギャップに気づき、過去の苦労話は社員に一切口に出しませんでした。それに代えて、苦労体験を踏まえてできた経営理念や経営哲学の内容を新しく入社した社員に説くことにしていました。これを聴いた社員が理念や経営哲学に沿って行動してくれれば、苦労話以上の生産性と成果に結びつくと分かっていたからです。現実、この通りになりました。
業種態様は別としても、経営の過程でどの経営者も直面する経営の変化点があります。
急成長時の過負荷ステージ
まず会社が急成長する時の変化点です。ある意味で、会社が成長するが故の危機ともなりえます。
急成長のある段階で、社員が高い経営目標に対して、負荷の過重を感じ始める時です。もし、創業時の視点を当たり前として突き進む経営陣がいるとすれば、その間に大きな溝が発生することから起きやすい経営の変化点に留意しなければなりません。
この場合、いくら「顧客が大切だ!」と経営陣が説いても、高すぎると感じるノルマを達成するために、「それどころではない!」という潜在意識と雰囲気が社員に蔓延し、結果として会社全体の収益性を下げてしまいます。必然的に、事業目標に対する社員の意識も希薄になり、結果として急成長の曲がり角を迎えることにもなりかねません。経営陣と社員との意識ギャップから、急成長のある時点で、危機を招きかねないのです。
成長からの鈍化、急降下時ステージ
次に直面するのは、成長鈍化、もしくは、成長から急降下の時の経営の変化点です。そのまま放置すると会社の衰退と崩壊の危機に直面するので、この変化点の認識が重要となります。
成長鈍化や急降下の原因はいろいろあります。
例えば、環境の変化への察知能力が乏しく自社のビジネスの成長のギアとして潮流の変化要素を捉えることが出来なかったケース、世界的な金融危機などへの対応遅れのケース、新たなビジネスモデルの誕生により自社を取り巻く市場の激変に追いつかなかったケースなどなどの場合です。環境変化への備えや対応が不十分なため、その会社の存在が危機に晒されることになります。
この場合、鈍化と急降下を防ぐためにどう立て直すかがポイントになります。
自社のビジネスモデル自体が環境の変化に追いついていないがために急降下しそうだとすると、自社の経営の相当抜本的なことを必要とします。
誰かがマーケットに新しいビジネスモデルの登場をもたらしたことで市場が激変した場合、特に重要な点は、そのこと自体は自社の急降下の「引き金」であって「原因」ではない、「原因は他にある」ことを経営陣自身が認識しなければならないことです。鈍感な経営陣が居座っていること、組織として俊敏な決断ができないこと、経営の優先順位に迷いがあること、社員のアンテナからの意見を吸い上げる仕組みが実質的に作動していないことなどなど、他に原因があります。
第256回 戦略の策定の大前提—環境認識(10)
前回からの続きです。
6) 戦略の実行可能性―戦略を絵に描いた餅としない認識が不可欠です
これまで環境の変化の分析の重要性を、一般的に把握できるマクロの環境の変化について説いてきました。
それを基にして戦略を策定するにあたり特に留意すべきことを数点述べます。
a) 戦略に実行性を担保する
まず、戦略の実行可能性を常に意識し、皆で実践できる戦略にしなければならないことです。
そのためには、
i) 「変革に社員が乗り遅れたら、今の生活は保障できない」という危機感を社員に持たせることです。戦略が妥当なものであれば、経営として当然なすべきことです。これなくして大きな変革を伴う戦略は実行できません。
ii) 同時に、現場に数字と施策の戦略が落とされた時、「なるほど、自分がその方向で仕事に努力すれば、会社も成長して、自分のポジションも給料もあがるのだ。」と、社員個々人への腹落ちと納得感がある戦略とすることが肝要です。
私流には、「個人の目標と会社の目標の一致」する価値部分を増やすことです。
社員の心理的エネルギーが会社の成長を引っ張る大きな力であることを忘れないでください。
私自身も経験しました。社員のエネルギーが結集した時の会社全体のパワーと戦略遂行のスピード感は凄いものです。「社長一人の機関車より沢山の幹部を巻き込んだ機関車の量が多いほど会社の経営スピードが増す」と、私が強調するのは、この背景があるからです。
たたき上げの経営者は、自信過剰になりこの部分で失敗し、戦略が実行性に乏しいものになっているケースをよく見るので、ご留意ください。
iii) 社員個々人がリーダーとしての資質を備え、常に変革を志向する組織文化を醸成させることです。
そのためにまず各部門のリーダーに、自分たちが戦略実行の主導役である意識付けをしなければなりません。意識付けにはいろいろな方法がありますが、一番効果的な方法は、戦略策定のメンバーに加え、その後、ある部門を徹底的に任せて、経営体験させることです。
この際、留意すべきは、社長の介入の頻度をとにかく抑えることです。事業計画の重要項目と数字のセットの握りが成立したなら、その部門運営にはできるだけ社長が口を挟まないことです。
この方法で自立、自律した沢山の社員が自ら判断し速やかに実行に移す組織文化を作る必要があります。
b) 戦略の実践課程でぶつかる大きな曲がり角に留意する
いろいろな会社の経営をアドバイスしていて気付くのは、既存の仕組み自体が会社組織の大きな根っことなり跋扈し会社全体を縛っていることです。
この根っこが時代の動きにマッチしたものに変容可能であれば結構ですが、そうでない時は、問題が結構大変です。既存の根っこが新しい戦略の実行を組織として運用面から阻むことになるからです。
仕組みは会社内のデータベースの持ち方、人材の評価方法、会議体での発言権等組織体の運営などいろいろなところに影響を及ぼしているので、その中での革新を目指す戦略の実行は結構大変です。時に荒療治も必要になるかもしれません。
一つの方法として、別組織として、そこで変革の芽を育て伸ばし、ある段階になったら、その組織を既存の会社内に一気に戻し、以前の仕組みを素早く取り替える方法もあることをお忘れなく。
c) 戦略から戦術への繋ぎで差がでる
戦略を毎期の計画に落とし込む繋ぎの部分で、一貫性を貫いた施策かが問われます。また、戦略を繰り返し具体的に説き、毎期の重点施策について、何故それに決定したかという背景をしっかり説かなければなりません。
この部分は経営者として最もエネルギーを注ぐ部分であります。
それなるが故に、これを努力しない経営者とそれを実行できる経営者の戦略展開の顕著な差を残念ながら見ることになります。
努力しない場合の結果は、経営者本人も社員も「一体何のための戦略策定だったのか?」の疑問と後悔を残すのみで、戦略がいわゆる絵に描いた餅に終わるケースです。
原因は一つ。トップの情熱不足、情熱を言葉に表す力不足、上下の信頼不足に起因することが多いです。社員の心理的エネルギーの結集に失敗することにつながるからです。
経営者の皆さん、是非、自らの労が、追って社員の笑顔に転化することをお忘れなく。
以上、ご参考になれば幸いです。
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