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折々の言葉

第195回 原発による被ばく

Posted on 2016-03-24

 福島原発の不幸な事故が起きたのが、2011年です。5年が経過しました。

 不幸なこの事故は、いろいろな角度から取り上げられ、報道されています。人災ではないか、その責任は誰もとっていないのはなぜかなどの角度の議論も重要です。

 取り上げられている角度の一つが、子供の被ばくの問題です。勿論大人の被ばくも大事件です。しかし、日本の将来を託す子供の被ばくは、更に深刻な問題です。本来その事実から、今後原発をどうするのかを徹底して議論しなければなりません。

 

各国でのデータが物語る事実

 報道によって原発事故後の福島の子供の、内部被ばくと思われる状況が明らかにされました。被災した時点で18才以下の子供の甲状腺検査が行われ、その後も経過観察が実施されています。詳細は覚えていませんが、それによると、被爆後の数年間の福島の子供の甲状腺がんの発症率の数字は、平均に比しては数十倍高いとのことです。何と驚くべきことです。

 1951年からアメリカのネバダ州の西部で核実験がなされたことは、皆さんご存知の通りです。そこでは、その年から1958年までだけでも大気中に97回放射能が放出されたとのことです。コントロールされていても放射能が出たことになり、ある意味で、福島の原発事故の際、反応容器の圧力を下げるため、ベントと称して、大気中に放射能をまき散らしたのと同じです。

 ユタ大学のある教授が、ネバダ州西部のセント・ジョージという町の15才以下の子供の小児がんの発生状況を継続的に観察していると報じられていましたが、それによると、核実験後の17年間の小児がんの発症率は、何とそれ以前の300%とのこと。この町は、核実験の線光が見える場所ではなく、約220キロも離れているところのようです。福島から東京や埼玉の距離です。放射能を体内に取り込み被ばくした結果と思われるとの報告があるとのことです。

 「ネイチャー」で発表されたある研究者の推定では、福島での放射能セシウムの放出量は97万キューリーであると、ある本で紹介されていました。ネバダ州の実験は100発分で、およそ16万キューリーとのことです。ただし、福島の原発の爆発によって出た放射能の80%は海に落ちたといわれていますので、それを割り引いても、ネバダでの実験から放出されたものの1.2倍の量となります。

 ウクライナのチェルノブイリ原発事故が起きてから30年になりますが、この近くで多くの人が不幸な目にあっていると、ヨーロッパに行った時に見聞しました。この事故による死者は2004年までで約100万人に及んだとも聞きました。

 

原発を再開する根拠が分からない

 翻って人口密度の高い日本で、これから原発の稼働が再開されようとしています。訴訟で裁判所が再開を差し止めたケースも出てきました。安全性が完全に保証されていないことが根拠です。放射性廃棄物の処理問題も宙に浮いた状態で、完全に安全だと言う保証を誰もしない、できない。因果関係が不明だと学者は言っていますが、福島での子供の小児がん発生の事実データがでています。この状態で再開される場合、再度大被害が起こる可能性がある。それでもドイツのように政府が判断を下さないことが、私にはよく分かりません。

 電力資源を石油、石炭、風力、水力などにのみ頼ってはおれないというのが、最大の根拠です。化石燃料では環境汚染がひどくなることも根拠です。しかし、日本中の原発が稼働していなくても我々は、今の電力価格でしのいでいます。放射能の汚染(可能性)を他の燃料による汚染と比較しないのでしょうか。

 近視眼的に、電力の供給価格と量、経済の成長率が人の命とを天秤に掛けているようにしか映らないのは私だけでしょうか。将来の子供が放射能汚染による被害を受けていることをどう考えるのでしょうか。

 

第194回 顧客に購入してもらう工夫

Posted on 2016-03-10

 「売る」というより購入してもらう。これには大変な努力が必要です。よほど大きな希少価値がある商品でもない限り、消費者の選択は厳しい。その環境下でも商品の販売で利益を出さなければならない。今回は、そのためにいくつかの方法についてふれます。

 

いろいろな工夫

① 比較する対象をタイムリーに置く

 比べてもらって選択に持っていくのもよくやる方法です。自社の商品の価値を、顧客が自ら比較できるようにすることです。

 この方法は自転車の販売店などでよくみられる方法です。沢山置くと顧客が迷う。数台置き、その狭い幅の中から選択して選んでもらいやすくする。また、日用品を最初に3,000円で売り出し、しばらくしてから、少し付加価値をつけた5000円の商品を出す。迷っていた顧客が比較できる対象が出てきた。5000円の商品より安い3000円の商品を選ぶという、比較させる方法です。

 

② 無料を組み合わせ、魅力を出す

 私の年代の人は「半値」の値札がついていると、これにいたく感激して衝動買いしたものです。私のような単純人間は別として、今の顧客は「半値」の値札だけでは、鋭い反応を示さないのではないでしょうか。

 ネットでの購入の経験が長いため、商品は限りなく無料に近づくという潜在意識が高いのか、「半値」だけでは得をした感じを持たない。そのような時に、「無料」商品を上手く組み合わせる方法です。日本酒6パック半値より、6個のパックの購入者に「1カップ無料品進呈」とすれば、顧客の反応も良い、会社も利益が上がる組み合わせ方式です。

 

③ キャッチーなメッセージでひきつける

 メッセージを工夫したり、それを変えるだけで効果が出るものもあります。

 ゴルフのシューズ。「シングルプレーヤーがよく履くこのシューズ!!」とメッセージを入れた宣伝文句。靴だけでゴルフが上手になるとは思わない。しかし、「俺も、シューズを買い替えたら、ひょっとして・・・」という潜在的な思いが、衝動的購買につながることになるかも。普通のレベルのゴルファーに、「もしかしたら」を印象付けるメッセージを入れる方法です。一般の消費者向けの商品で、彼らの目と脳に訴える方法として様々なキャッチが可能です。勿論本体自体が良い品ものである前提です。

 

④ 商品に共感性を抱かせる

 ネット経由の無機質の世界から共感の世界に導くのも方法です。その商品のデザインが気にいっている。手に持った時の商品の感触が良い。それを持つと何となく誇らしく友人に薦めたくなる。友人とこの商品で楽しみたい。発売開始時のiPhoneしかりです。商品から共感性を抱かせる上手い方法です。

 

⑤ 同じ空気を体験させる

 CDをリアルな場で購入するのは、この例です。リアルなコンサートの場でアーティストと触れ合い、共感を味わい、居心地の良い体験を経た後、デジタルの商品を会場で購入する、講演会場で講演内容に賛同、満足して講演録のCDや商品を購入する方式です。

 顧客価値をリアルの環境の中で体験し、商品に表現されている同じ空気感を基に商品を購入する。二段構えで時間がかかりますが、ファン層づくりにもつながる方法です。

 

⑥ 顧客接点をアナログ化する

 ネットで商品を購入するもよし。しかし、皆と逆のことをやる、逆張り方法です。

 敢えて、顧客との接点をアナログ化する。その商品やサービスをリアルの場で購入すると、楽しいとか、魅力的だとかの、アナログな世界に導く方法です。商品にってやり方に違いがあるとしても、デジタル化が進めば進むほど、一部の顧客は、無機質の世界でなく、こういう人間的な接点に興味を覚え、魅力に感じてきます。

 

⑦ 特定層や女性目線を大事にする

 ある軽自動車のボックスシリーズでは、室内を広くし子供用の自転車を搭載可能にする設計に腐心が感じられます。このスペースを確保するために、エンジン部分の設計段階で、その機能についての発想の転換が潜んでいるのではないかと思わせるものです。

 女性目線を大事にしてファッション性を重視し、車の色を多色選択とし、幅寄せがしやすいようにミラーを充実しているのも傑作だと思います。

 

価値を売る

 顧客に購入してもらう方法と同時に、適正な値決めは経営者にとって極めて重要な仕事です。しかし、同時に難しい。

 理想的には、顧客に値段を決めてもらう、商品の顧客価値(カスタマーバリュー)に対してバリューに合う値段をお支払いただく方針を貫きたい。

 特定の商品やサービスが顧客にとってどんな価値を持つかを仮決めし、その顧客価値に合致した値決めをすることになります。私の経験でも顧客にとって価値あるものは高く売れます。ある時期、クオリティ(品質)に顧客が重きを置いている傾向を洞察、徹底してこれを差異化すると、この策が顧客価値に合致し相対的に高い値段で継続して販売できました。逆に、良いと思った商品でも、顧客が使い勝手などの価値を認めないかぎり、高い値段では売れ無いことも体験しました。

 顧客価値を見いだせない時、自社のコストに対して一定の利益を載せて売る「マークアップ」方式にする傾向があります。しかし、最近のデジタル環境下では、深刻な価格下落に見舞われ、マークアップ率の低下傾向に皆悩んでいます。この原因は、顧客価値を真剣に探索せず、プロダクトアウトの発想で商売をやっているからだと早く気づくべきです。

 

第193回 閑話休題―金社会になり過ぎた世の中

Posted on 2016-03-03

世の中、便利になってきました。何でも欲しい物がすぐ購入できます。買えないものが無いほどの世の中です。しかし、それでも消費欲求願望が消えない。

これが今の世の中です。

この結果、普通の消費者が、自己の満足の追究のために消費の行きすぎを防止できなくなっています。債務過多の状態です。企業で言えば、資金ショートで倒産です。

あくまで個人的な考えですが、例えばクレジットカードで購入しまくる行為は明らかに行きすぎと見ます。便利ですが、現金で購入する時より、購入金額は、明らかに多くなる傾向がある。資金の裏付けもないのに、大きな買い物をする習慣が我々に根付いてしまっています。

世の中が便利になったことで、健全であった個人が、自己の欲求の満足を我慢しきれなくなってしまった時代ではないでしょうか。

これを個人の消費習慣の問題と見る立場もあります。それで便利さを享受し、その状態に満足している。その事実を尊重すれば良い、後は自己責任だという立場です。しかし、本当にそんな世の中でよいのでしょうか?

このようになった原因の一つは、金融が支配する経済がプラス面のみならず、多くのマイナスをももたらしたことと関係します。消費をいびつにあおる、金(カネ)で価値を測る社会構造そのものを作ってしまったことです。

アメリカでは金融部門が経済の中で占める割合がどんどん大きくなってきました。住宅やシェールオイルなどの資源も、一時実態以上の投機的対象にされました。物の重要さより、金を生む道具にされてしまったのです。学校を卒業した優秀な人材も金融部門の報酬の大きさに目を奪われ、自己の才能が本当に生かされるか分からない金融部門に吸い上げられているようです。

日本でも同様にこの傾向が出てきています。

金融の革新で、例えばクレジットカードを世界中どこでも利用できる便利さを享受、これは旅行者にとり有り難いことです。

しかし、企業の経営面でみると、金融の革新による沢山のメリット以上に、金融支配の構造が気になります。日本の戦後の哲学であった社会的存在としての企業という考え方が、便利さの中で、どんどん何事も金融の物差しで図る経営に変質してきています。

今や短期的視点での効率を重視し、社員や他の構成員の犠牲のもとに株主価値を最優先する考え方に変わりつつあります。

果たして、これを推し進めることで、日本の企業が世界で特別、特異な存在意義を示せるのでしょうか。競争の土俵を少し変えることが出来ないでしょうか。金(カネ)に傾きすぎて、金(カネ)がすべてを決める世の中の価値観に、日本古来の良さを前面に打ち出すことで、何か一石投じる経営が出来ないでしょうか?

閑話休題です。あしからず。

 

第192回 「生き残るために―植物編」(2)

Posted on 2016-02-25

 前回の続きです。

 植物の知性の一部を紹介します。

 飛ぶ鳥の群れが何故ぶつからないか不思議と思いませんか?鳥の群れが集合体として造る動作も不思議です。

 

根が何故ぶつからないか

 これに対して著者は面白い解釈をしています。その「解答は単純です。」と。

 「自分の前方と右の鳥から数センチ距離を保て」という基本ルールを全ての鳥に持たせればよいとの解釈です。確かにこのルールを全ての鳥が守れば、ぶつからないことになります。

 鳥と同様に、根端も自分の傍で成長している他の根端から一定の距離を保つように注意しているのではないでしょうか。こうするとお互いの根端がぶつからないで、それぞれの生育を遅らすことにならない工夫を植物はしているからです。

 

鳥の群れの集合体が造る動作と創発行動

 鳥の群れの動きと同様に、植物は分散知能を持っていると説明されています。

 分散知能の下では、生物の各個体が集まって群れをつくる時、個体そのものには存在しない性質が全体として現れ、これを「創発」と言うようですが、植物もこの創発行動をとっています。

 すなわち、環境から情報を入手し、予想・予測し、共有し、処理し利用する能力をはじめ、選択、学習し、記憶する能力を持っています。植物は、最近ではロボット工学や情報科学にとってアイデアの宝庫とも言われます。また、全植物の95%が未開拓で、植物は新薬開発の宝庫とも言われているのも、むべなるかです。

 

分割可能性

 また、人間の各器官はそれぞれ一つで取り換えが不可ですが、植物は地中の根に無数の司令塔を持ち、それぞれの根が分割可能な生き方が出来ます。すなわち、インターネットに似たネットワーク構造を持っています。

 人間が対抗できない力です。

 

植物の尊厳

 2008年スイスから「植物に関する声明の尊厳――植物自身の利益のための植物の倫理的考察」と題する報告書が出ていることが紹介されています。

 植物は単なる物体ではなく、活動的で環境の適応力を持ち、主観的資格の能力を備え、何よりも人間に全く依存しない独自の生き方をしているのだから、尊厳と言う概念を植物に与えて問題はないことを根拠としているようです。驚きです。

 

帰結

 最後になりますが、私たちが住んでいる地球という惑星は、宇宙の辺境に位置する銀河系の全く取るに足らない一惑星にすぎません。すべてのことをこの地球を中心に考える宇宙観を、ひょっとしたら我々は捨てなければならないかもしれません。人間以外の森羅万象と人間を区別するために造り上げたこれまでの常識を捨てることになるかもしれません。

 植物は生まれた時は大きな不自由さを持っています。しかし、諸問題を解決し「生き残る」ために乗り越えていく力を持っている植物のしたたかさを、この本から学び、著者が称する植物の「知性」に脱帽した次第です。ご興味のある方は是非ご一読ください。

 

第191回 「生き残るために―植物編」(1)

Posted on 2016-02-18

 正月、家族からプレゼントされた本を読み、感銘を受けました。

 ここに紹介することで、我々人間が如何に固定観念に縛られているかに気づき、それを打破するきっかけになれば幸いと思い、私がこの本から感銘を受けた部分を今回取り上げさせて頂きました。

 この本は、「植物は『知性』をもっている」というタイトルの本です。イタリア、フィレンツエ大学農学部教授の植物学者、ステファノ・マンクーゾ氏と科学ジャーナリストのアレッサンドラ・ヴィオラ氏の共著です。

 

人間中心の階層化に疑問を呈す

 アリストテレス以来2300年ほども、「人間―他の動物―植物―無生物」という階層・序列を、一般の人びとはあまり意識せずにいました。これに、「植物は動かない」、「感覚を持たない」という間違った考えも加わって、植物は動物より低い階層に位置づけられていると強調しています。

 また、旧約聖書の創世記を読んだ読者が知らず知らずのうちに「植物は生物ではない」という認識を持ったことも、この序列に関係するかもしれないとも述べています。旧約聖書の創世記では、神は動物を創造し、最後に動物の中から最も優れたもの、すなわち人間を創造しています。神は7日間かけて、この創造の仕事をしています。植物は3日目に、人間は6日目に創造しています。植物の光合成機能を考えると、植物が先に存在したのは今の科学の見解とほぼ一致します。

 アダムとイヴに関係して、オリーブの葉とブドウの木は創世記に登場することはご存じの通りです。にもかかわらず、植物らしきものは登場していません。このことは、多分、植物を生物と見做していなかったからと推測されます。

 いずれにしろこれらの間違った常識やそれを主張する学者に、著者が真っ向から挑戦した本です。沢山の植物の行動などの事例を基にして論拠立てて説明していますので、植物が大好きな私は書かれている内容に一気に引き込まれてしまいました。

 

動物は植物なくして生き残れるか?

 学校の生物の授業で学んだ通り、我々人間も属する動物は、植物が作り出した物質やエネルギーを利用しています。一方、植物は太陽エネルギーを自己の必要のために利用していますが、動物に依存しなくても生存できます。

 植物は、太陽エネルギーを化学エネルギーに変換して自分の中に集めて貯めていくという光合成のプロセスによって、光と空気中の二酸化炭素と水が糖類に、つまり高いエネルギーの高分子化合物にかえられるという機能を持っています。

 また、植物は太陽の光からエネルギーを生み出す中心的役割を演じ、それを食す動物を助けることから太陽と動物を繋ぐ媒体となっています。しかも、地球上で生きている多細胞生物の総重量を100とすると、植物の総重量は99.5%だと書かれています。圧倒的に植物が支配していることになります。

 従って、植物は、人間が勝手に区分けした階層の中で、下に方に位置づけられるのでなく、本来主役のはずだとの主張です。

 

我々が抱いている植物に関する常識――動かない、感覚が無い

 植物の動きを人間の近くで捉えにくいから、植物は「動かない」とされていたことに対する反証が書かれています。

 動物系に属する「ゾウリムシ」と植物系に属する「ミドリムシ(ユーグレナ)」を比較し、ミドリムシが光の当たる場所に移動する事例を明示することで、主張の背景を裏づけています。我々が想像する「動く」ことの通念とは違いがありますが、明らかに植物が移動する事例です。

 また、「感覚を持たない」ことについてもいろいろな事例が紹介されています。

 我々動物が5つの感覚を持つのに、植物は動物の感覚に15も加えた20の感覚を持ち、「生き残るために」したたかな戦略を駆使して生き残っていることを説いています。植物が「したたか」に生き残るために、これらの感覚がどう関係しているかに関して詳細に説明されています。

 

知性がない vs 無数の根端の情報処理能力

 階層の下に植物を位置づけする理由の一つが、知性がないとの常識です。

 これに対して、著者はこの見解を間違った知性の定義に基づいた結論ではないかと問うています。知性の定義を拡張することにはいろいろ議論があるかと思いますが、確かに著者の以下の定義も一理あると考え、私は賛同します。

 「脳があるか、無いか」で知性を分類する旧来の概念を、著者は変更、または、修正し、「『生きていく』ために耐え、諸問題を解決しているか否か」を知性の根拠とする概念を定義に持ち込んでいます。これならば、植物も「知性をもっている」ことになります。

 「生きていくために」、植物は、感性を駆使し、コミュニケーションをし、眠り、記憶し、他の種を操ることも出来ることを、植物に関する最近の研究から紹介しているからです。

 この概念に於いて、無数の根端、根の先にある1ミリ未満の部分がそれぞれの植物のキーです。植物を引き抜くと根の先端に位置する部分です。この根端が「生きていくため」の司令塔になっています。根端こそが植物のデータ処理センターの役を持ち、彼らが「生きる」ために重要な部分と説明されていますが、その通りだと思います。

 この「(根端を作動させて)絶えず前線を形成しながら(植物は)進んで行っています。根系全体が一種の集合的な脳で、根は成長しながら栄養を摂取したり、生存に必要な情報を獲得する分散知能として植物の個体を導いていく」と、著者は述べています。

 根端がデータ処理センターだとすると、何処に進めば栄養が補給でき、「生きていくため」の条件が満たせるかをそれぞれの根端がデータ分析して、最善の解答を得ながら植物は生存していることになります。

 これぞ「知性をもっている」ことにならないのでしょうか。