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折々の言葉

第215回 物語を語る経営

Posted on 2016-08-18

相手に通じてナンボ

 私は、経営方針を社員に説くときに、計数だけでなく、できるだけ物語を語ることに気をつけていました。

 事業の計画の期初のスタート時点から期末までの間の諸政策には、一貫した物語があるはずです。方針が社員の「腹の底に落ちて初めてナンボだ!」と口を酸っぱく言っていたのは、計数のみでは無機質で社員の心に刺さらないので自分自身もこれに努力をしていたからです。

 腹の底に落ちるには、本心で、相手のペースに合わせて、同じことを何回も、しかも少し角度を変えながら説くことが大切ですが、これを物語として説くことが肝心です。

 物語(ストーリー)は、自分の過去の出来事、失敗などの経験、顧客との真剣勝負の間合いなどですが、これらが物語としての話し方によって、聞く人にとって感銘を与えることになります。

 この重要性を認識してもらうべく、私の主張する「農耕型企業風土づくりの経営」を推進するための経営の【定石】の13番目に、これを入れています。

 

若手の経営者の指導―教科書にないこと

 最近若手の経営者の経営指導をしながら彼らの育成の努力をしていますが、その指導に当たり教科書的で一般的な内容は彼らにほとんど響かないことに身をもって体験しています。

 むしろ、私の身近に起きたストーリー、私の過去の反骨的経営ストーリーなどを内包した一つの物語として語るほうが、はるかに彼らの心に刺さることを知りました。自慢話になりそうなリスクがあるので、これまではあえてこの指導方法を避けていましたが、最近は一部軌道修正をしています。

 ある意味で波乱万丈の経営人生、既存の体制に対して常に疑問を呈し、現状を打破して局面を打開して次の成長の活路を求めていった私の経営体験が、彼らの生きた勉強・研修になるようです。

 具体的には、破産寸前での再建決意とその裏での綿密な戦略と遂行物語、経営路線をめぐる親会社との対立と克服の手段選択、大仕掛けな経営主張の裁判での決着など、若手の経営者が、規模の大小は別としても、現実に直面する事態に対して、「トップが経営上どんな物語を描いて、どんな選択肢を選んだのか」が教科書には載らない生の体験を物語として語るのです。

 

物語を語るメリット

 お陰で、このことを聞きつけた紹介された他の経営者が興味を示してきました。彼らも指導を実践して確実に実績をつけてきました。

 このように、

・人から人への話は広がりやすいのです。良い口コミです。指導がストーリー仕立てになっているので、彼らの脳の中に入りやすく、覚えやすい。心理学的にはストーリーを入れることで聞き手の吸収力に数十倍の効果があるのではないかと思っています。

・自慢話に仕立て上げてはなりませんが、実際に起きたことを経営的視点から物語ることで、若手の経営者が学ぶ気持ちを自然に起こさせることができます。

 最初は少し拒絶反応がある人がいても、実体験の物語が経営を変えていくためのものであることが分かると、彼らも自然に態度を変えてきます。物語を話す私に敬意を示し、さらに学びたい真摯な姿勢が如実にでてきます。

 これの例外は、自分だけの考え方に凝り固まっている経営者で、他の人の意見を聞こうとするマインドがない人です。経営のスピードを加速させ、結果として、社員全体の支持を受けることができるのに、自分だけの考え方に凝り固まっていることが、明らかにマイナスになっていることに気づいていない人です。

 残念ですが、このような人は経営資質の限界があります。経営することが仕事であることを理解できていない人です。

・生の物語は、彼らの心に響きやすく、人を奮い立たせる力があります。

 「俺も挑んでみよう!!」という気持ちにさせる機会をつくるのが、この手法の最大の効果です。彼らの心のギアが回転しだすと、後は、経営の路線を踏み外さないように、その時点で必要な経営施策をしっかりアドバイスするだけで上手くいきます。結果として、確実に会社の成長のスピードを更に高めることにつながります。

 もちろん経営層のみならず、一般社員の育成にあたっても、物語を語る方式を研修に取り入れることも可能ですが、今のところ私の興味は、日本に日本の文化風土を反映したプロの経営者を育てることですので、ここは経営層に限定して言及しました。

 蛇足ながら、アメリカの大統領予備選挙の候補者の演説を聞くと、アメリカという国の経営のためにどういうストーリーで臨むのかについて物語が、この半年全くありません。

 単なるイベントのショウに成り下がっており、この間の時間と金を費やすに値するプロセスか否か個人的には疑問に感じる制度です。

 もし、経営者候補がこのような短絡的、人気取り的な演説のみを行ったとすると、まず経営者として選任に値しないと皆が見做すでしょう。

 ご参考になりましたでしょうか。

 

第214回 経営者が人格の幅を拡げるには(2)

Posted on 2016-08-11

前回の続きです。

 

人格を育てる方法

 自分の体験です。違う人格を育てるのに以下のようなことをしました。

 ある会社の経営を託された時に、経営の師匠と仰げる人が幸い近くにいました。

 その人のやり方などの技法を学ぶ人が多くいましたが、私は、それには余り興味がありませんでした。その人の才能というか人格を学ぶ、盗む努力をし、お陰で私に備わっていない才能を沢山学ばせてもらいました。

 しかも、その才能は自分が一番苦手とするものでした。自分の性格に向いていないと勝手に判断していましたが、それでは経営者が勤まらないことを分かっていました。意外なことに、やっていくうちに自分の隠れた人格を育てることに成功しました。

 

人格を育てた効果

この結果、

 第一に、人を見る見方の幅がうんと大きくなったように思います。部下の気持ちや相手の気持ちが分かるようになりました。今、経営コンサルタントとして経営者を指導していると、この新たな人格が大いに役立っています。

 第二に、いろいろな人の状況や心境に合わせて、それに適した人格で対応できるようになりました。顧客にあって、瞬時に状況に合わせた自分の人格を引き出せるようになりました。

 第三に、多重人格をマネジメントする努力をしていくうちに、自分自身の心の中の欲と言うかエゴを、少しく静かにみつめることが出来ようになりました。

 瞑想の訓練とも関係があると思いますが、自分の心の中のエゴを「何とかしよう」とするのでなく「そういうエゴが心のどこかにあるのだ」と、第三者的に観察できる時もあります。

 これが人格のマネジメントかもしれませんがこれを繰り返していくうちに、面白いことが起きました。

 経営再建の始めの頃は、再建のために何とかしなければ自分が失敗経営者の烙印を押されると、どちらかといえば利己的に発想する人格の持ち主でした。

 ところが、ある段階になると、自分は社員の幸福のために頑張らないといけないと考える視点に完全に変わり、更にその後、社会的存在価値のある会社にして、全ての社員が幸せ感を感じられる会社にしたいと、本心で考えるようになりました。この詳細は、『これからの課長の仕事』をご参照ください。

 小さなエゴからそれを包含して、だんだん大きなエゴに成長していたことになります。自分の志や使命感が健全な社会の発展につながってくるような変貌を遂げてきたことを覚えています。

 ご参考になれば幸いです。

 

第213回 経営者が人格の幅を拡げるには(1)

Posted on 2016-08-04

 複数の人格が同一人物の中に潜むという意味で、経営者は、若しくは、ほとんどの人間が、ある種の多重人格者だと思います。

 

複数の人格

 そう言う私も、下に述べる定義による多重人格の一人です。

 私は約20年位ある会社の経営者でしたが、社員の心を一つにまとめるために、会社のビジョンや将来像を熱く語りました。ある種の「夢」の実現に向けて自分の思いや志を熱く語っていました。

 その一方で、毎月の社長点検時には、計画の数字の達成に厳しく質問攻めで望み、ある意味で「数字の鬼」となっていました。そうしないと、企業として社会的存在価値が断たれる可能性があったからです。

 このように、同一の私に複数の人格がおり、置かれた状況や立場で「異なる人格で対処していた」ことになります。

 

人格とは

 ここで人格とは何かです。

 「あの人はxxの様な人だ。」と言いますが、実はこれが人格だと考えています。このxxに、普通は何が入るのでしょうか。

 真面目、数字に強い、手先が器用、細かい仕事が得意、人の面倒見がよい、陰険などなどが入ります。この言葉群を見ると、ほとんど才能と言ってもよいかもしれません。すなわち、嘘を絶対につかない優れた才能、理論的に思考する才能、繊細で細やかな作業を好む才能、マネジメントが得意な才能などの、才能群が浮かびます。

 

多くの才能の持ち主

 従って、多重人格とは、肯定的にとらえると多くの才能の持ち主だということにつながります。多くの人格のうち、現時点ではその一つが表現されているのです。

 課長のレベルで必要な才能が出ていたとしても、その人が経営者になって暫くすると、本人が深層的にもっていた隠れた才能が、社長職と言う状況や環境の変化で開花する人もいます。

 立場や状況に即して、人格が自分の中に育ち、表に出てくるのです。なお、よく心理学者が議論する幼少期の虐待の体験者は、この事実を強く抑圧されて表面に出ないようにしているといわれていますが、このような抑圧された人格の議論に関しては、私の範疇を超えたものとなりますのでここでの対象外とさせていただきます。

 

人格を育てる

 上記のような特殊な場合を除いた人格については、わたしはマネジメント出来ると考えています。

 それでは、表の人格に加えて隠れた人格双方を開花させるにはどうすればよいかを取り上げます。これを取り上げるほうが皆さまの生活がより豊かになるからです。

 答えは、人格を「変える」のでなく、隠れた部分を「育てる」発想です。

 皆、長年生きて、自分の人格を形成してきているはずです。育った生活環境、友人や会った人物、家族の影響、海外体験など様々な生後の影響により形成されてきたものです。

 現実にはその人格を自分でコントロールできない場合も発生します。

 このような場合には、変えようとせず、それはそれとして、新たな人格を育てる努力をすれば良いのではないでしょうか。

 個人的には、短気で結論を急ぐ人格の持ち主でした。それを自分で意識していたので、私自身、のんびり相手のことを聞く人格を育てる努力をしました。経営者になってからです。相手に寛容になる修業を自分の中でしたつもりです。自分で言うのもおかしいですが、そのような人格を演じていると、しばらくしたら、それが自分の中に「育ち」、意識的に必要な努力をしなくとも出来るようになりました。

 経営の指導を要請されるときなど、この体験のメリットにより、その経営者の心の在りようが何となく自分の内面に映り、鮮明に分かるように感じることがあります。その経営者が落とし穴にはまり失敗しないようにアドバイスするために大いに役立っています。

 

第212回 今、リーダーに求められている経営の視座(7)

Posted on 2016-07-28

前回の続きです。

 

海外の幸せ観の例

 幸せの国際比較をした研究があることもも知りました。2006年イギリスのレスター大学が178か国を対象にしたもの経済成長率のみでなく、健康、景観、教育、信仰心などを基準に各国の幸福度を計測したものです。

 日本は90位ですが、1位はデンマークです。

 この国は地図で分かる通り、平坦で比較的暖かい。農業が強い国で、社会保障制度を早々に充実させ福祉国家を築いた国と社会科で学びました。

 なぜ幸福度が高いのかは別として、本題との関係で幸せに焦点を当ててみます。

 この国出身の童話作家のアンデルセンが有名です。

 皆さんご存知の童話、『マッチ売りの少女』が幸せを語っているのではないかと思います。これはデンマーク人に幸せの考え方を諭したものとも捉えることができます。以下は、Wikipediaからの全文引用です。

「むかしむかし、雪の降りしきる大みそかの晩。
みすぼらしい服を着たマッチ売りの少女が、寒さにふるえながら一生懸命通る人によびかけていました。
「マッチは、いかが。マッチは、いかがですか。誰か、マッチを買ってください」
でも、誰も立ち止まってくれません。
「お願い、一本でもいいんです。誰か、マッチを買ってください」
今日はまだ、一本も売れていません。
場所を変えようと、少女が歩きはじめた時です。
目の前を一台の馬車ばしゃ)が、走りぬけました。
危ない!
少女はあわててよけようとして雪の上に転んでしまい、そのはずみにくつを飛ばしてしまいました。
お母さんのお古のくつで少女の足には大きすぎましたが、少女の持っているたった1つのくつなのです。
少女はあちらこちら探しましたが、どうしても見つかりません。
しかたなく、はだしのままで歩き出しました。

冷たい雪の上を行くうちに、少女の足はぶどう色に変わっていきました。
しばらく行くと、どこからか肉を焼くにおいがしてきました。
「ああ、いいにおい。・・・お腹がすいたなあー」
でも少女は、帰ろうとしません。
マッチが一本も売れないまま家に帰っても、お父さんはけっして家に入れてくれません。
それどころか、
「この、役立たずめ!」
と、ひどくぶたれるのです。
少女は寒さをさけるために、家と家との間に入ってしゃがみこみました。
それでも、じんじんとこごえそうです。
「そうだわ、マッチをすって暖まろう」
そう言って、一本のマッチを壁にすりつけました。
シュッ。
マッチの火は、とても暖かでした。
少女はいつの間にか、勢いよく燃えるストーブの前にすわっているような気がしました。
「なんて、暖かいんだろう。・・・ああ、いい気持ち」
少女がストーブに手をのばそうとしたとたん、マッチの火は消えて、ストーブもかき消すようになくなってしまいました。
少女はまた、マッチをすってみました。
あたりは、ぱあーっと明るくなり、光が壁をてらすと、まるで部屋の中にいるような気持ちになりました。
部屋の中のテーブルには、ごちそうが並んでいます。
不思議な事に湯気をたてたガチョウの丸焼きが、少女の方へ近づいて来るのです。
「うわっ、おいしそう」
その時、すうっとマッチの火が消え、ごちそうも部屋も、あっという間になくなってしまいました。
少女はがっかりして、もう一度マッチをすりました。
すると、どうでしょう。
光の中に、大きなクリスマスツリーが浮かびあがっていました。
枝には数え切れないくらい、たくさんのロウソクが輝いています。
思わず少女が近づくと、ツリーはふわっとなくなってしまいました。
また、マッチの火が消えたのです。
けれどもロウソクの光は消えずに、ゆっくりと空高くのぼっていきました。
そしてそれが次々に、星になったのです。
やがてその星の一つが、長い光の尾を引いて落ちてきました。
「あっ、今、誰かが死んだんだわ」
少女は、死んだおばあさんの言葉を覚えていました。
『星が一つ落ちる時、一つのたましいが神さまのところへのぼっていくんだよ』
少女は、やさしかったおばあさんの事を思い出しました。
「ああ、おばあさんに会いたいなー」
少女はまた、マッチをすりました。
ぱあーっとあたりが明るくなり、その光の中で大好きなおばあさんがほほえんでいました。
「おばあさん、わたしも連れてって。火が消えるといなくなるなんて、いやよ。・・・わたし、どこにも行くところがないの」
少女はそう言いながら、残っているマッチを一本、また一本と、どんどん燃やし続けました。
おばあさんは、そっとやさしく少女を抱きあげてくれました。
「わあーっ、おばあさんの体は、とっても暖かい」
やがて二人は光に包まれて、空高くのぼっていきました。」

 

 上記の引用を勝手に簡略化して解釈すると、冬の寒い夜に貧しい少女がマッチを売っていました。なかなか売れません。凍え死ぬような寒さの中、少女が自分を温めようとマッチを擦ると、ストーブが目の前に現れてきます。ところが、暖を取ろうとストーブに近づくとストーブは消えてしまいます。次にマッチを擦ると、ご馳走が並び燭台が現れますが、それを手に入れようとすると、ご馳走は消えてしまいます。

 また少女がマッチを擦ると、おばあさんが現れ、少女を抱き上げて天国に連れていきます。

 翌日、残ったマッチを抱えながら少女が死んでいる姿を見ることになるのです。

 

デンマークの幸せ概念

 この教訓は、人間は幸せを求めようとすると、なかなか得られない。たとえそれが得られることがあってもすぐに消えてしまうことを暗示しています。さらに、高望みをすることが如何に無益なことかも警告しています。

 欧米の一部の経営者には、家庭を犠牲にしてまで高額の経営報酬を求めて働き続け、さらに高望みを追い求め、結局、際限のない欲望の壁に突き当たり人生を棒に振った人もいます。そのような人を私は見てきました。

 そのようにならないようにアンデルセンは、玄侑氏の説く人間関係というより、自己を律する厳しい心を前提においているとみられます。彼の考え方がデンマークやヨーロッパを代表する意見かは不確かですが、幸せの考え方の違いが見えます。

 人は自己を律しそこそこの幸せを求めることによってこそ、満足度の高い人生を送ることができることです。この考え方が日本にないわけではありませんが、玄侑氏の人と人との関係から幸せを説く意見も非常に参考になります。

 

ゼロ成長時代の幸せ観

 日本のようなマイナスの人口成長率では経済成長率は高まるはずがありません。高めるには出生率(含む移民)を上げるか、資本の成長率、技術進歩率を上げることが必要だと慶応の時、経済原論で習ったのですが、それを実現する策がもちろん必要です。

 加えて、ゼロ成長率の時代の日本での「幸せ度」をいかに上げるかという、これまでになかったテーマに正面から取り組むことが国家施策として必要ではないでしょうか。

 ご参考になれば幸いです。

 

第211回 今、リーダーに求められている経営の視座(6)

Posted on 2016-07-21

前回からの続きです。

 

「幸せ」の概念

 私は、「これからの社長の仕事」(ネットスクール出版)の中で「農耕型企業風土」づくりを通じて会社を中・長期的成長と発展を実現できる「フォーミュラ」を説いていることを、この「今、リーダーに求められている経営の視座」の数回前に書きました。

 この「フォーミュラ」の特色は、社員を幸せにすることで会社の成長につなげることを骨子としているもので、会社の成長が社員を幸せにすることではないことを逆説的に強調したものです。

 これを国レベルで例えると、国の経済力がその国民の幸せレベルに必ずしも比例していないことでも分かる通り、国民の幸せ度はGDPなどの数字では測れません。

 現在もこの考えが踏襲されているかは未確認ですが、1976年にブータンの国民総幸福(Gross National Happiness)という概念(詳細省略)が紹介されたのも一つの試みです。

 

日本的幸せ観

 幸福度の国により考え方の差があるかは後述しますが、ここで一番言及したいのは日本人ならではの「しあわせ」観です。幸せの感じ方が日本での経営に大きく影響する考えているからです。

 たまたま読んだ玄侑宗久氏の『しあわせる力―禅的幸福論』に面白いことが書いてありましたので、参考のために要約紹介します。

 

語源

 「しあわせ」という言葉は和語で、室町時代には、人と人との関係がうまくいくことを「仕合わせ」と呼んだと言います。詳細な説明は省きますが、すなわち、日本人が考えたしあわせは、常に相手がおり、西洋的な計量できるしあわせ観と違うというのです。

幸福の幸という文字、日本人はこの一字で「さいわい」と読んでいます。「さいわい」は、「さきわう」という言葉が変化したもので、さきわうは賑やかにいろいろな花が咲いている状態のことだから一人では無理だと玄侑氏は言います。

 要するに人間関係、人と人との間で「しあわせ」が決まると日本人は考えたと、玄侑氏はいいます。人間関係がしあわせをもたらすものだということです。

 玄侑氏によれば、「日本人がしあわせを感じるのは、思わぬことが起きて、その中で揺らぎながら何とかやりくりしつつそれを楽しんでいるような状況」ということになりますが、すべてロジックで片ずけ因果律で考え、確実な近未来を想定しようとする現代社会の発想とは違います。その発想では、予定外のことが受け止められなくなり、そのため、しあわせは、起りえないと彼は説いています。

 私もそう思います。

 障子で覆われた三畳の小さな茶室に寝そべり、障子に映る外の四季の移ろいを楽しむ。光も音も遮断しないのに、幽かな心豊かな瞬間を楽しむ。この自然との相対の中で変化を楽しむ国民性が日本人には本来あるはずです。

 物事は相対的です。関係性を重視し、これに上手く対応することが日本人の幸せ感の根底にあると、私も思います。

 

行き過ぎた個性の主張が妥当か

 これに対して最近気になるのが個性という言葉だと、玄侑氏は論じています。

 自己の輪郭を明確にすることを迫られ、明確にすればするほど説明できない事柄が増えています。

 自己の輪郭を明確にするには自己言及をすることになりますが、これにはきりがない。ちょうど自分のしっぽを咥えて食べる蛇のようなもので食べれば食べるほど苦しくなります。本来自己というものは関係性の中に成立し、関係は絶えず変わり続けるものと日本人は考えていたと、」玄侑氏は述べています。

 弱い人間が生き残ってこられたのは、集団で暮らしていたからで、こういった集団を作れる力が「しあわせる力」といえる。ところが、現在われわれは人の世話にならないシステムつくりをどんどんすすめてきています。「核家族」、「一人住まい」してその結果、人間の本質的な力がどんどん衰え、コミュニケーション力も弱まったのではないでしょうか。

 

皆で仲良く

 七福神という集団がしあわせをつくることも紹介されています。七人の幸せを運ぶ人です。昔自宅の神棚の横に七福神が飾ってあったのを記憶しています。

 七福神をめぐって歩く習慣は、江戸時代に江戸で始まったようです。七福神そのものは、室町時代末期ごろ、京都の臨済宗のお坊さんが考えだしたと言われています。

 なぜ七福神を作ったのかです。

 八百万のイメージなのだそうです。インドからの毘沙門天、大黒天、弁財天、中国から福禄寿、寿老人、布袋さん、あと一人日本から恵比寿さん、合計7人です。

 八百万のどの一つにも正義を求めないという日本人の感性が凝縮して示されている。正統も異端もなく横並びにごちゃまぜであることがしあわせなのだ。全員一致などありえないと、玄侑氏の本に紹介されています。

 日本人の幸せ感、素晴らしい意見だと思います。