人間関係
与え続ける
「Give & Take」という言葉があります。「与え、与えられる」関係です。
この言葉、一見、フェアに聞こえます。響きが何となく良いです。しかし、私の20年の経営体験からすると、これは意外に「計算ずく」のフェアさだけのことが多いように思います。この場合、「Give & Take」の結果として何かを成し遂げても、嬉しい実感が本心から湧かないことが多いのです。「与えられる」ので「与える」という打算が働き、本心の動きが感じられないことが多いからです。むしろ、現実には、「Give & Give」で与え続けることの方がビジネス上のメリットが大きいと、私はずっと感じてきました。しかも、これを意識していないで「与え続ける」のです。その方が結果として、周囲からの「信頼」、「信用」という、ビジネスマンとして最高の物を勝ち取る機会が多くなると考えます。ビジネスで成功している人には、これが多くみられるのではないかと思います。
何故でしょうか?
第一に、与え続ける人は、チームワークの中でお互いに助け合い頼り合うことの重要性を熟知しているからです。ゴリゴリ自分を押し出すと、全体のチームバランスを崩すリスクにつながります。私も、自分だけが前に出ても、全体を大きく構築するには限界があることを知りました。与えることで助け合うことが、かえってチームを強固にし、全体の成果を大きくする力があると考えます。論理でなく道理の世界です。
第二に、与えることは、任せることと一脈通じます。与え続けるので、与えられた人は、与えられたものを利用して何か仕事をする、任されて仕事をすることになることが多いのです。与えること、すなわち、任せたことで、部下が育つ機会を作ることのなるわけです。育った部下からの感謝も含めて、その部下の以前より高いレベルの力を借りて、部門全体が大きくなることにつながります。自分個人の利益より全体の利益を大きくして、その中から大きな分配をもらうことにつながります。
第三に、与え続ける人はいろいろな関係性(Relationship)をつくるからです。関係はごく限られた人のみでなく、与えられた沢山の人に及ぶのです。この関係がどこからどう自分の成果に結びつくかは本人にも分からない。本人もギラギラしたマインドが無いことが、かえって、集まる人々に安心感を与え、その人たちからの信頼をうることになります。結果として、人間関係づくりの基本をわきまえている人と見られるからです。
皆様もご存じのとおり、16世紀末、日本の統一の過程で毛利軍と織田軍が熾烈な戦を展開しました。好き嫌いは別として、この双方、毛利元就、織田信長とも「与え続ける」こととは全く逆の「Take & Take」型だったかもしれません。他方、安芸の毛利軍に常に攻められ続け、最後は有名な武将の山中鹿之助をもってしても一族再興ならず、毛利軍に滅ぼされたわが故郷、出雲の月山富田城の城主の尼子義久は、どちらかと言えば「Give & Take」型だったかもしれないと思います。こと戦となると、取った、取られたという土地支配力がモノを言ったので、そうならざるを得なかったのかもしれませんが、ビジネスの世界では、最後の決め手は「信用」や「信頼」支配がモノを言うとなると、「与え続ける」ことこそが、一番効いてくると考えます。
会いたくない人
先週、ある会社の社長との話の中で、印象に残る人物が話題となりました。その話から、偶然、腹黒い人について触れる展開となりました。そもそもあまり聞きたくない話だとは思いますが、ご参考まで。
私は、これまで本当に腹黒い人にお会いしています。最後の最後まで見抜けませんでした。一見紳士風。話も知的センスにあふれており、何となく引きこまれる。次にお会いしても同様。また次も表面は隠蔽し、さも善人ぶるその人に騙される。何回か繰り返すうちに、彼の腹黒さが少し分かる。しかし、その頃には、その人の権謀術数の展開通りにストーリーが進み、根こそぎとられてしまう。しかし、本人は何もなかった振りをして、次の週も顔を合わせる。
このようなことが、皆様できますか?まさに、腹黒の極地です。みなさんの周囲にもいるかもしれません。架空の話ではありません。今でも世の中に、こういう人がいることを知るだけでも、少しはリスクヘッジになるかもしれません。
スケールの違いがありますが、歴史書で権謀術数に長けた腹黒い人物を読んだことがあります。あまり周囲からは尊敬されない人物かもしれませんが、これも度が極端に標準から逸脱しているので、物語や映画の材料に適しているかもしれません。
中国、「三国志」に登場する魏の国の曹操。読まれたことがあると思いますが、多数の人民を殺戮。しかし、何も反省しない人物。それどころか、「自分が人に背くことがあっても、人に背かれることはない」と豪語する人物。人を陥れる腹黒さの代表選手です。
「三国志」から漢の時代に入り、皆様ご存じの劉邦。彼こそ最高の腹黒さを持った男だと思います。歴史書の通りだとすれば、なにしろ自分が助かるためには自分の息子でも簡単に犠牲にするほどの男です。他方項羽は劉邦ほど腹黒さ無いように描かれています。他人の不幸が見過ごせない男。劉邦ほどの腹黒さが足りないのです。あの広い中国の天下を取れなかった原因の一つかもしれません。
曹操や劉備のような人にもし仕えるとすると、どうしたらよいか?通常の仕え方では無理です。距離を置きたい、会いたくない人ですね。
実に嫌なことですが、現実の世界でも、スケールを落としてこのようなことが起きているかもしれません。ある種のやり方で仕える振舞いをする。このような上司がスイスイと昇進する姿を見ることがありませんか?悲惨ですが、現実です。しかし、そのスケールで、その振る舞いでは、長続きをするかは疑問です。ましてや、天下取りは無理かも。
あなたは「信頼」されている自信がありますか?
発する「言葉」と「行動」にもとづく信頼関係
原子力のストレステストの実施が管前政権で打ち出され、現野田政権もその方針を踏襲していますが、政権の政策判断に国民にはまったく納得感がないのはなぜでしょう。政権のこれまでの主張と行動のブレが影響し、政府が発信する言葉に信頼性がほとんどないからです。
新しい安全規制値を設定したと言っても、いわゆる「原子力村」の仲間のみで議論した数値とみられ、大多数の国民が「どうせ天下りというメリットを受けるため」の仲間内の判断や「ためにする」決定という印象を抱いているのではないでしょうか。
また、民主党が実行しようと躍起になっている消費税の改定はそもそも国民との約束違反ですが、それを半歩譲っても消費税増税の合理的理由が、国民の間には半煮え状態でしか伝わっていません。この件に関しては、われわれに「自分たちは税金で国を支えている主権民の一人である」という認識が欠如しているところにも原因があります。「一身独立して一国独立す」と福沢諭吉は説いていますが、国民の自主性、主体性がないところに国のレベルアップはありえないという趣旨、が胸にグサリと刺さります。
そのような国民側の意識と行動にも課題が多いとしても、政府が参議院を通過させようと躍起になっている増税に納得感を感じている国民が少ないのは何故でしょうか?
「信頼」からくるリスペクトこそ運営のキー
要は、政治の責任を持っている人と国民との間に信頼関係がないことが問題なのです。
そのような背景があるところには、政策決定事項へのリスペクトは生まれにくいものです。今や、これらの政策自体に加えて、国民の間では民主党の議員個々人に対するリスペクトまでが失われてしまっている状態を、どう考えるかです(注、私は特定の政党とは一切関係ありません)。
企業で言えば組織内の上下の信頼関係です。
今年の初めに書いた「これからの社長の仕事」で私は、「農耕型企業風土」づくりで企業を中期的に発展させる「フォーミュラ」を打ち出しました。この「フォーミュラ」を、企業を成長・発展させるための評価プログラムに今回仕立て上げていますが、上司の発する「言葉」と「行動」にもとづく社員との信頼関係が、このプログラムの中で一つのキー要因となっています。
信頼を勝ち取るためには、うわべだけの約束でなく、社長が「自分は本当にこう思う」ことを本心で語ることです。どこかの政治家のように、上辺だけの言葉を仮に発するとすれば、それはすぐ偽物と部下に見破られます。
目標実現に向けて社長が社員を叱咤激励したり、社員を厳しく叱る場面も時には発生します。
また社員も、社長や幹部に対して苦言も含めた意見をどんどん言っていくこともあるでしょう。それぞれの立場が彼らにいろいろなことを言わせることがあります。けれども、双方が「自分はこう思う」と真実を本当に吐露する「場」があるならば、理解が深まります。この相互作用でその企業が正常に発展していくのです。心の上に着ている洋服を取り除いて裸で話し合うことで、叱って指示する社長と意見を言う社員の双方に、互いに対するリスペクトが生まれてきます。
聴く耳を持ち、相手の話を聴き、約束を遵守し、本心で対話をする努力をすることで、経営層と社員の一枚岩が絵に描いた餅でなく、実質的なものになっていきます。
しかし、たとえどんなに小さくても「言葉」や「行動」に嘘や約束違反があれば社員はそれを簡単に見抜き、一挙に信頼関係に齟齬が生じることを、くれぐれも忘れないでください。「小事大事」と私も常に心しています。
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