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「農耕型企業風土」づくり

経営上、尊敬する歴史上の人物

Posted on 2013-07-04

 歴史上の人物で興味ある人物が沢山います。もちろん彼らに会ったことが無いので、その人物の全人的なものは観察できません。ある一面のみから判断したのも事実です。それでも興味ある人物です。

 好きな日本人で経営上も参考にさせていただいた人物に、二宮尊徳(1787年~1856年)と上杉鷹山(1751年~1822年)がいます。紀元前200年頃の中国で、連戦連敗しながら最後に項羽と戦ってやっと勝ち、今の中国の基礎をつくった劉邦も「バカになる」ところの印象が強く私が好きな一人ですが、本日は日本人を例に取り上げます。

二宮尊徳

 先日、ある家の前に二宮尊徳の像があるのを見つけました。というより私はそこに像があることを何年も気づかなかっただけのようで、私の長女の子供が彼の目線でいとも簡単に見つけてくれたのでした。私の身近なところに、突然二宮尊徳像が現われました。

 孫曰く、「あのおじさん、なんで何かを背負って本を読んでるの?」(笑)。

 以前にもこのビジネスコラムで、二宮尊徳のことを少し触れたことがあります。最近の生活環境と違うので、薪を背負いながら本を読む姿がスマホ世代の孫どもには理解できないのも納得します。

 私の年代の人は、二宮尊徳のその生い立ちからして、質素倹約、勤勉の道徳尊重の代表選手というイメージをいだきます。それが正しい観察だと自認しています。父を14歳で、母を16歳で亡くし伯父の家に引き取られた二宮尊徳は、労働を強いられながらも小田原にいる頃「論語」「大学」「中庸」を独学で学び道徳と知識を身につけた人だと言われています。

 昔は、二宮尊徳が薪を担ぎながら本を読んでいる銅像が、どこの小学校にあったはずです。数年前にも私の郷里の出雲で、近くの小学校に3体の尊徳像が存在していたのを覚えています。

 戦争中には二宮尊徳の質素倹約の姿勢が軍に上手く利用され、イメージが変な方向に走った時期もありましたが、彼の本質は軍の考えとは全く関係の無いものだと思います。尊徳は青年になってから家を再興した後、小田原藩の服部家などを再興したほどの大人物です。

 彼の特徴とするところは、貧しい人々に金銭的支援や年貢米の減免措置を施すことのみでは効果がなく、農民の年貢米の徴収に関してある程度の余裕のある基準を作って農民の生活を少し潤わせたことです。仕えていた藩主を説き当時の農民が無理なく収められる年貢米の限度(分度)を決めたことで、農民への思いやり(仁術)を実践した人物と言われています。

 彼は誰でもわかる単純な方法で取り掛かりました。どの村も貧しい状態が続いていましたが、その中の一番貧しい村に彼の改革の全精力を注ぎ、農民全体にその村のやり方を徹底させたことです。「一つの村を救える方法は、一国をも救える」と彼が言ったと言われます。

 私も「その通り」と思います。模範となる実績、実例を現実に作ることで、まず範を垂れる方法です。彼の改革方法がすごくスーと頭に入り、彼の方法にリーダーとして学ぶべき経営論理の普遍的な部分がありそうに見えました。

 私も経営する過程でこのやり方を真似た一人です。組織の中で一番悪いグループに全知全霊を傾けて改革に取り組みました。一番悪いがゆえに改革には大変なエネルギーが必要となり、我慢比べにもなりました。

 そこの部門が改革されると皆、「あそこが改革できたので自分の所も改革できそう」と、他のグループが自信を持って改革に取り組んだエビデンスが存在します。事象はいろいろありますが、共通している課題はその部門のリーダーが部下の成長に関心があり、部下の成長のためにリーダー自身が範を垂れるか否かです。

 また、二宮尊徳はそれぞれの農村の生産力に応じた分度を定め勤倹を説き、その結果としての富を譲り合うという報徳思想を広めました。お互いにサポートしあいながら全体の計画を達成するという私が主張する「農耕型企業風土」づくりの経営にも一脈通じるところがあります。

上杉鷹山

 上杉鷹山も好きな一人です。彼は米沢藩の跡継ぎの立場で藩の極貧の状態を解決するために数々の改革を実施した、あるいはせざるを得なかった人です。

 1981年、米国の35代大統領に就任したJ.F.ケネデイーが日本の記者団から「あなたが日本で最も尊敬する政治家はだれですか?」との質問を受け、大統領が「上杉鷹山」と答えたほどの人物だと、ウィキペディアに記載されています。

 故ケネデイー大統領はおそらく、米国内で出版、翻訳された内村鑑三か新渡戸稲造の著書を読んでいたのでしょう。当時は記者団の中に即座に上杉鷹山の人物像が浮かぶ人がいなかったのではないかと思いますが、実は大変な改革者です。

 上杉鷹山は非常に信心深い人だったようで、儒教的な教えの影響も受けて経済を道徳と関係付けた人かもしれません。富を徳の結果とみなして、徳育の教育のために「興譲館」(謙譲と徳を興す館)を晩年に創設したほど徳育教育を実践した人です。

 また、いったん決めたら絶対に譲らず、不退転の決意を持って改革に取り組んだ彼の姿勢にも共感します。その志の高さと志を実現する強固な意思には感服します。

 経営上「社員の幸せ感」を実現することこそが経営上の優先順位が高いこと、したがって、「社員を幸せにする」ことが先決で、これなくして企業の中期的成長はないとした「農耕型企業風土」づくりの経営の中での私の主張とどこか通じるところがあると思います。

 教育・研修で人材育成を図る重要性を認識し、これも私は実施しました。志の高さと強固な意思は社員を引っ張るためのリーダーの前提で、鷹山に習ってこれも実践しました。

米百俵

 幕末の戊辰戦争(北越戦争)で敗れた長岡藩の選択の件を思い起こします。教育と人材育成の重要性です。戊辰戦争での敗戦後、長岡藩の74000石の石高が、なんと30%まで減額されました。当然、藩が困窮の極みに陥りました。

 長岡藩のこの窮状を知って三根山藩から米百俵が見舞いとして贈られました。この米を食べたい藩士が多い中、藩の重役小林虎三郎(佐久間象山の門下生)はその米を腹の空いた藩士に配らず、教育のための書籍や器材の購入に充てたと伝えられています。何よりも重要な人材育成にその金を使ったのです。

 上杉鷹山の考え方も米百俵の内容と同様で、私が尊敬する理由もそこにあります。「人材無くして成長なし」です。

 

人間集団をまとめる経営層のジレンマ

Posted on 2012-04-26

直木賞受賞作(145回)、『下町ロケット』(池井戸潤著)を2011年秋に読んで思うことがありました。主人公の佃航平の発言などから、著者が今の時代にどんな思いを抱いているのかが鮮明に浮かび上がります。

集団を引っ張る経営者が、自己の「夢のある目標」を追い求めていくが、なかなか社員の共感をえられないジレンマ、大企業と中小零細企業間の格差の現実の中で大企業の下請け的立場に甘んじたくない経営者としての気骨と当面の飯のタネを求める社員の思いとの板挟み、入社した会社の大きさと自分の実力を勘違いして横柄にふるまう恥ずかしい大企業の社員の姿、組織という厚い壁のある中でも、不道理に屈せず社会正義を追い求める社員の姿、いろいろな状況で見せる社員の顔の裏と表などなど。私も経営者としてこれらと同様な状況に直面し、克服してきました。

私もこれまで約20年間、経営者として稀有な体験をしました。

倒産直前の社員間の不信、裁判、上場、親株主の変更、株式の第三者割当に関わる訴訟、株式非公開化、社長解任劇などなどです。この経験を踏まえてネットスクール出版より二冊の本を著わしました。『これからの課長の仕事』と『これからの社長の仕事』です。

その中で私が気づいた経営の在り方と「農耕型企業風土」づくりで中・長期的に会社を成長させるため「いろいろな施策で社員を幸せにすると、本人(社員)の心理と脳の特定の働きかけにより、社員のモチベーション、創造性、革新性が高まってイノベーションをもたらし、本人と会社を成長に導く」フォーミュラ(公式)や「18の定石」を述べました。

この本の内容や本で言いきれなかった体験を、園山征夫のビジネスコラムでは、出来る限りリアルで具体的に、「問いかけ」の形を用いることによりテーマを簡潔明瞭に表現することに努めます。Facebook上で展開しております「わくわく元気会」の部会活動に加えて、これから活躍し社会にいろいろな意味で貢献されるビジネスマンを対象に、「折々の言葉」としてこのコラムで情報発信していきます。

皆さまが、いろいろな意味で「わくわく元気」になれることを祈ります。