コミュニケーション
第283回 日本的風土――水に流す
前号に引き続き、日本的風土についてふれます。
外国人には不可解な言葉があります。「水に流す」の言葉です。
2013年頃、日本人の精神性の項で本件を取り上げたことがありますが、日本人と水との歴史的関わりで、深く考えている人の本に出合ったので再度書きます。
その方は、樋口清之氏という登呂遺跡の発掘をはじめ考古学的遺跡発掘の権威者です。
水に流すとは、読んで字の如くこれまであったことをあっさり忘れ去ること、良くも悪しくも、済んでしまったことは仕方がないとの発想です。この日本人の行動様式は穏やかで優しい人間関係を維持するための知恵とされてきました。
諦めや順応さの性格醸成
「過去に拘らず、論(あげつらわず)わず、責めず、忘れ、受容し、許す、これが日本人の行動様式」だと、樋口氏は言っています。諦めやすく順応な日本人の一般的性格に通じると考えます。
人間の性格には、環境が与える影響が大です。我々は、河川の氾濫、火山活動など、自然災害が頻繁に起きる国に育ちました。万一、不幸にも氾濫や災害に遭遇しても、早く立ち直る、身代わりの速さが「水に流す」性格を育んだのではないかとも言われています。
日本の川は、地形的なものから流れが速い河が多い。水の量も多い。もともと川は巨大なゴミ捨て場でしたが、流れが速いことは、水に流して川の清らかさを保つ利点があります。
また、日本列島は季節による寒暖の差が激しく、地域によっても気候が大きく異なります。この自然環境によって、日本人の順応性の良さと諦めの良さが形つくられたかもしれません。
対立を好まない関係性
また、人間関係の上で対立を好まない日本人は、良く「す(済)みません」という。
この表現は普通、自分の過失を詫びる言葉ですが、これは水に流す行動が表れた一つの言葉で、「住む」と「済む」と「澄む」ことは同義でした。このことについて民俗学者の荒木博之氏は次のような内容を述べています。
川が澄んでいない、汚くなった状態の時です。これが、「澄まない」、「済んでいない」となるとのことです。これは、自分は流れに逆らいませんという、人間関係を滑らかにするための呪文のようなものであり、水に流す行動が表れた一つの言葉で、流れに従順ではかった自分が悪かったという表現ではないでしょうか。「私も今までのことは水に流しますから、あなたもどうぞ水に流してください。そして、新しい澄んだ気持ちになりましょう。」と。以上が荒木氏の主旨です。
思うに、交通事故などで発する「すみません」の言葉は、ある意味でこれを内包している言葉で、早く「水にながしたい」ことを言いたいのではないでしょうか。ビジネス活動の中で、この言葉を聞くたびに、私は荒木氏の主張を思い起こします。
第282回 集団の内側と外側の峻別
今回は、ビジネスと少し距離のある日本的風土を取り上げます。
「誠に申し訳ない」発言
最近よく耳にする政治家や官僚などがある嫌疑をかけられた時の答弁が、明らかに嘘とわかることが多くあります。そのような時の彼らの謝罪発言の中には、「世間に対して誠に申し訳ない」と決まった言葉が出てきます。セクハラに対して、その根拠は別としても自らは無罪と主張していながら、政治や世間を騒がせたことについては謝罪して辞任するという、このパターンです。
論理的に思考をする人には、これは不可解です。「何故、それなら辞任するの?」、「誰に対して責任を取って辞任するの?」と不可解に映ります。
彼らの発言の裏側にあるこの発想の根底にある世間は、実は社会ではありません。
ここに言う世間は、社会ではなく、自分が関わっている限られた人間関係のつながり集団だと解釈すると、先の答弁も実に分かり易い。
自分とのつながり
「俺は違う」と言う人もいますが、日本人には、「世間」の目を気にしながら生きている人が多いと思います。世間から後ろ指を指されないように、常に自分の言動に配慮しているのではないでしょうか。
ここでいう世間とは何か。この定義は先ほど述べた通り、一般的には、個人と個人を結ぶつながりだと解釈してはどうでしょう。
このつながりが個人個人を強固な絆で結びつけているのが、良い意味でも悪い意味でも、日本の社会に根づいている現実です。大学の同窓会、何々高校出身OB会、会社関係の年賀状など、形は変わってもつながっています。非常に大事なつながり、現実です。
内側と外の世界
個人個人のつながりを得た関係上、ある意味その代償として、世間には厳しい掟があります。
結婚式や葬儀での序列、何かを互助する際の金額の多寡など、我々が日常体験していることも、ある種の掟です。
しかも面白いことに、内部で掟を守ることと同時に、内部での競争は出来るだけ排除されることです。その世間に属していない人々に対して、排他的、差別的になりやすくなるのも事実です。
昔、出雲の田舎で部落の決め事のために行われていた定例の部落会は、内と外を峻別して内を守る掟のようなものがあったと記憶しています。
西欧の考え方との違い
前段で、日本でいう世間は社会を意味しないと言いましたが、西欧では社会と言う時に個人が前提となり、その個人は何人にも譲れない尊厳を持って、その個人の集団で社会をつくっていると解釈します。
西欧とひとくくりにするのは若干問題ですが、特に、キリスト教文明下では、絶対的な神に対しての個人と社会という関係が築かれており、ここにいう世間が登場しません。従って、個人の意思に基づいてその社会の在り方も変容してくることになります。
ところが日本では、世間は個人の意思によってつくられると言うよりは、世間がほぼ所与と見做されることが多いのです。
私自身、「独立自尊」を標榜して生活しているつもりでも、世間を意識しながら生活しているのが偽らざる気持ちです。私の中では、世間と社会を意識する精神性が両立しているのではないかと推量していますが、知らず知らずのうちに出雲の自宅の部落会の行事が頭をもたげ、世間から排除されないように日常の言動に気を付ける習慣が身にまとわりついているのではないかと思うほどです。
「農耕型企業風土づくり」の経営
私が日本での経営には「農耕型企業風土づくりの経営」が適していると主張しているのも、このような背景があります。
日本人の性格に影響を与えた最大の要素は、稲作農耕を基盤としてきて生活してきたことです。稲作には水が不可欠で、川上の村と川下の村の水争いがよく起きました。これを避けるため、普段から村同志が共同体を形成して部落会で話し合い助け合っていく方法がとられました。内側を結束させ強めることで自分が属している共同体を維持しようとする思想が根底にあるのです。
水で結ばれ、土地で結ばれた村落共同体では何事も全員の賛成の上でことが行われ、村のリーダーの一番の仕事は意見の違いから起こるいざこざや反対者を「丸く収め」、世間に迷惑を及ぼさないことだったのです。
このような風土を背景とする限り、日本では周囲と折り合いを上手くマネジメントして、競争社会という世間で生きるほうが成功しやすいのではないでしょうか。
第150回 新任マネージャーのコミュニケーション方法
この春、全国の会社に新任のマネージャーが沢山誕生したことと思います。頑張ってください。本日は、人間関係について新任マネージャーのみなさんの参考になることを述べます。
私は、以前、コミュニケーションを武器としたビジネスの経営を託されていました。いろいろな試行錯誤を重ねながら経営してきましたが、特に、人と人とのコミュニケーションの方法で気づくことが多くありました。その一部を、これまで三冊の本(『これからの課長の仕事』、『これからの社長の仕事』、『礼節と誠実は最強のリーダーシップです。』)に著わしました。
その中で、共感の重要性についてふれています。本の内容を一部参照しながら、今回、新任のマネージャーが部下との対人関係を更に良く出来るよう「共感度を上げる」留意点について数点ふれます。コミュニケーション力をつけるためです。
私の理解では、共感度とは、相手と同じ位置、同じ目線で、何かを感じる度合いのことです。共感度が増すと、「友の憂いに我は泣き、我が喜びに友は舞う」のレベルまで豊かな感性を築くことにつながるかもしれません。
1.人は自己中心であることの認識
人間は、一般的には自分本位です。自分の考え方や行動パターンに類似する人に親近感を覚えます。それでも、ビジネス上での人間関係では、価値観や行動パターンの違う人々と上手く関係を築くことが必要となります。
仮に上司にアサインされたとすると、部下を上手く導いて成長させる責任があります。皆、頭の中ではそのことを分かっています。しかし、実際の実施段階になると、ほとんどの方々が部下の指導にあたって、ある種の不安とジレンマを感じています。
2.愛情と怒りの矛盾
一つ例を挙げます。部下指導の指導にあたり、共感と怒りとの関係です。
部下を叱咤激励する部下がいました。部下の育成にあたり本人があまりに熱心なため、時に部下のできないことを、激しい怒りの言葉で責め立てる上司でした。仕事ですから緊張感を持ってやらなければならないのは当然です。従って、上司たる立場上、叱らなければならないこともあるでしょう。
しかし状況を傍で見ていると、愛情極まったこの上司の怒りと反論したくても反論できない部下の不満が対立して指導自体が空転していることが多くあり、それまで築いた上司と部下との人間関係もぶち壊しになる危険性をはらむ状況となっていました。
上司は育成の一環で叱っているつもりでも、怒られる部下の立場に立つと微妙な人間関係と映ります。誰にでもこのようなことはありますが、上司の側に共感度豊かな対応が不足しているのです。愛情豊かな上司に限って、それが変じてこのような叱り方をする場面が出てくるのを見ます。愛情の本気度が何かの事情で空転し、おかしいいことになるのです。
ここで私が気づいたのは、それは人間として致し方ないことだとの考え方をまず持つことでした。
人間の性(サガ)として、時に愛情が変なぶれ方をし、愛情と対極的位置にある自己中心的な上司の憎悪の姿が、現実にでてしまうこともあるのです。それは子供の育て方にも出てきます。この認識を念頭に部下に接することです。愛情が変じて怒りとなるシーンを出さないように、如何に自己コントロールするかです。上司として配慮すべき重要なことだと学びました。
もし、このような努力でそれぞれの状況を上手く乗り越えられれば共感度が更に増し、上司と部下の人間関係は、意外にそれ以前よりうんと良くなるかもしれません。
3.人間関係と共感度
日常、知らず知らずの内に共感度豊かな対応を実行している人も多いです。
しかし、人間同士や家族との関係が疎になった現在、知識や権威が先行しがちです。特にビジネスの世界では、共感的なコミュニケーションを出来ている人が少なくなっているように感じます。すなわち、相手のことを慮る感性が、一般的に衰えているように思われます。人との関係で生きている我々は、人間関係を豊かにする方が生活の中での潤いを増すことになると考えますが如何でしょう。
4.感性、感じる心の持ち主
経営を託されていた会社で、会社再建時に会社経営の骨格を決めました。その一つ、「社是」の中に、「一、行動と感性で、・・・」という文言を入れました。
あるコミュニケーションビジネスで一番になりたい。更に、この分野で会社が特色を持って生息できるためには、感性豊かな社員の心、発想と行動が無ければ、無理だと思ったからです。社員の感性自体が会社再建と目標の達成のキーだと思ったからです。
分析する力のある人材は沢山集まります。しかし、一番のポイントは、何かの事象に「ピンと感じる力」だと思います。これこそ会社にとって商売上重要なだけでなく、社員それぞれにとっても、自分のレベルを高め自己実現に近づくためにも極めて重要なことだと考えたのです。人間関係が上手くいくのみならず、ここから新しいビジネス的発想なども生まれることになるからです。
5.傾聴する姿勢、括らない
傾聴ということも重要視していました。特に、新しくマネージャーに登用された人には、とにかく「まず、部下の話を聴きなさい」と、アドバイスしていました。頭でっかちで、相手のことなど無視してとにかく自分の主張をまくしたてる新任マネージャーにしたくなかったからです。共感度の無いマネージャーが以後幹部として成長するかどうかの行く末は、ほぼ見えていると思っていたからです。
また、部下の話を遮って、「つまり、君の意見は・・・だよね」と話を括ることも戒めました。聴く耳を持てば、話す相手の発信する言葉、そのトーン、表情、目線などの全体から、相手があなたに本当は何を求めているかを実際に感じるはずです。
実は、このあなたが感じたことが、相手にもすぐ察知されているのです。そのうち部下の警戒心が解け、同じ目線で話ができる良いコミュニケーションの場がつくれることにつながるのです。このような場合、聴くことに専念します。会話の中ですぐ自分の考えを述べることはタブーです。時間がかかっても、まず聴くことです。
6.聴く忍耐力
このように聴くことは、忍耐がいることです。それでも、より良い人間関係を築くには最低限、必要なことです。新任のマネージャーのマネジメントの「イの一番」に、「相手の話を聴き、話を括らないこと」をアドバイスした背景がここにあります。
部下が何かのトラブルに遭い悩んで相談に来た時に、「あなたの悩みはこうなんだよね。こうしたらいいよ。」と、上司からサラリと言われたら、それで部下の悩みが納得感を持って解決するのでしょうか。
このような場合、一般的に本人自身がある回答を持って相談に来ています。上司に期待しているのは、解決の回答を前面に出すような話でなく、本人の悩みに共感してもらう何かであるはずです。従って、「そうなのか、だから・・・のことであなたは悩んでいるのだね。」と、穏やかな声の質で相手に寄り添う上司の姿勢が必要となります。頭でっかちな人がやる「それは、・・・だよ。・・・が悪いんだ」と、すぐ白黒つけるような場面を、部下は全く望んでいないことを理解し、感じるべきです。
新任のマネージャー諸君、参考になったでしょうか。
男性と女性の違い
私は長い間、コミュニケーション-正確には、ダイアログ(対話)に関係するビジネスに携わっていましたが、その間、男性と女性の考え方や感じ方、コミュニケーションの取り方の明確な違いを見てきました。
一言でいうと、男性は必要なこと以外は余りしゃべらない。これに対して女性は、必要なことの判断軸が男性よりはるかに広く、なんでも話題の中に取り入れてしゃべる傾向が強いということです。この意味で、男性と女性とは違うことを痛感しています。
この違いはどこからきているのでしょうか。
ある学者は、大昔に何万年も続いた洞窟での生活と関係あると説いています。洞窟の中で生活していた頃の両者の役割が基になり、脳の中にそれが組み込まれているのではないかと言う主張です。学術的なことは別としても、私もおそらくそうではないかと思います。想像するに、命懸けで洞窟の外に出て獲物を獲ってくる役割、洞窟の周辺の危険を気にしながら子供を世話して、食事をつくり、洞窟内で一緒に暮らす集団の平穏と健康を保つ生活維持の役割等を、双方が分担して果たしていたのではないかと思うからです。一般的なイメージですが、前者を男性が、後者を女性が、役割として担っていたのではないでしょうか。
女性はとにかくおしゃべりを通じて人間関係を樹立していくために、一日数万回コミュニケーションや言葉を発しているようです。一日のうちに数千語の単語をしゃべり、これの数倍の顔の表情や頭の動きなどのボディーランゲージ、言葉にならない声や音を数千回発しているそうです。対して男性は、せいぜいその三分の一ほどと言われています。
女性のコミュニケーションは、遠まわしで回りくどい婉曲話法をとります。女性は洞窟の巣を守るために対立や不和を避けて平穏無事を目指したからですが、男性のそれは直截的話法です。しかも、この言葉を介したコミュニケーションに関連して、身体接触を通じた会話を楽しむのも、女性は男性の4~6倍とのことです。皮膚の感受性がすこぶる高いのです。
仕事の中で部門間の相互援助の必要性をいち早く察知するのも、女性のほうがはるかに早い。隣の部門にヘルプが必要か、誰かが悩んでいるのではないか、誰かの意見にその人が傷ついていないか等の察知能力に関しては、女性の精巧な感覚能力には男性はかないません。私の言う「農耕型企業風土」づくりにおいて、女性の果たす役割が大きくなることになります。
洞窟で集団生活をする中で、周囲のわずかな雰囲気の変化を察知することは、自分の子供を守り、結果として家族を守るために必要不可欠だったからかもしれません。また、女性の周辺視野が男性よりはるかに広いのも、洞窟の周辺の敵をいち早く見つける必要があるからです。他方、男性は遠方のものを見分ける視点に優れています。これも遠方の獲物を探すために身に付いたものと思われます。長期的視野で物を捉える仕事には向いているかもしれません。
日常の仕事の進め方において、この違いを理解して、かつ、性差の特徴を活かしながらマネジメント努力をする必要があります。そういう私も、このことを分かりながらも、普段の生活で「もっと、話を聞いて」と言う家内の要請に答えられているか自信がありません。
ソーシャルメディアの使い方
情報の流通は社内外ともブロックできにくい状況にあるのが現実です。このことを背景にすると、社員のソーシャルメデイアの活用についても今後様々なことを考えざるを得ないと思います。社員が外に向かって発信する内容についてのガイドとなるある程度の基準を作ることは一つの解決策として、ほとんどの企業がルールは作っているはずです。
発信情報の歪みの原因
しかし、社員が発信する内容は根本的には社員が会社からどういう扱いを受けているのかと連動します。社員が会社の方針に反対であってもその意見を正当に主張できる「場」さえあれば、彼らが外に向かって情報を歪めて発信することはあまり無いのではないかと思います。この「場」と環境さえあれば、甘えの部分がいつかは反省されるはずです。
ソーシャルメディアの活用で最近思い当るところがあります。私の友人の例からのヒントです。発信人が歪んだ形で情報を発信した場合の対応をどうするかでした。そのサイトの場で議論を展開するより、ホットな状態が過ぎ去るのを暫く待つ方が得策です。ホットになっている状態では、どんなに建設的な意見でも相手に素直に伝わりません。曲解されて受け取られ、かえってややこしくなります。よほどの悪意に満ちたものでない限り、個人の意見を外に向かって発信する自由を妨害することの方がかえって問題を大きくするものです。「我慢一筋だった」と友人が話していたのを記憶しています。
コミュニケーションと肌合い
ところで、最近思い当たることがあります。
これまで、マーケット全体に大きな影響を及ぼしそうな人、いわゆるインフルエンサーを発掘してその力を有効に使うことに力点をおいていたことが自分の経験でもありました。このやり方が今もある程度有効とは思います。
ところがFacebookの活用などを体験してみると、書き込みや「いいね」の私への反応は、私との精神的な肌合いの近さが大きな影響を及ぼしているのではないかと思うようになりました。この人達は一気に大きなグループにはなりませんが、肌合いのある親しい友達の小さい、しかし、確実なグループになり、その影響力に注視すべきではないかと考えるにいたりました。こういう視点で私も発信情報のコンテンツを書いています。
そのような人の数を一度数えてみてください。グループは小さい集団です。私の場合、コミュニケーションする相手の数は多い時で70人。だいたい30~50人以内です。この中で頻繁にコミュニケーションする相手は20人以内です。
冒頭に述べたように私をインフルエンサーとみなして、何か特別な意図を持って私に間接的要求をしていると思われる人もいます。私は相手に押し付けるような方法はSNSの世界でも好まれないと思いますので、間接的にそのような依頼があっても私は応じることはありません。そんなことをするとむしろ妨害的になります。 SNSへの書き込みも同一な肌合いの人々との社会的な「絆」を深めるためと考えていますので、一方的に自分の考え方や主張を押し付けるようなことはしていません。
コミュニケーションの相手が「園山征夫のビジネスコラム」での主張のコンテンツをシェアしてもらう以上に、そこから発展する仲間の会話を楽しむぐらいに軽く考えてこのコラムを続けています。押し付けがましい内容ではなく、いろいろな人に役立ちそうな情報を提供して共有してもらうという姿勢でやっています。過去の経営経験から参加者に関係ありそうな情報と思える内容を提供したり、内容に共感する人々の会話のやり取りを助けたりしています。
私の経験では、「いいね」のクチコミが広がるコンテンツは、グループにとって有益な情報ではなさそうです。参加者の感情のどこかを刺激するものです。この視点を忘れて、自分で勝手に有益と考えて発信した情報は意外にシェアされない経験があるのは感情の部分への頓着を忘れているからではないかと思うことがあります。
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