人生のゆらぎ / 折々の言葉
鴨長明(方丈記)と吉田兼好(徒然草)の生き方、人間(2)
二人の共通点
鴨長明と吉田兼好の晩年の生き方の続きです。二人には、現実に生きる人間の観察において共通点が見られます。
鴨長明のことは先日このコラムに書きましたので、今回は吉田兼好に焦点を当て二人の共通点を見てみます。
第一に、長明は平安時代を見限り鎌倉時代に期待しましたが期待外れ。兼好は鎌倉時代の終わりを予見する眼力を持っていたと思いますが、かと言って室町時代に期待したわけでもなさそうです。いずれにしろ、二人とも「世捨人」の立場で随筆を著していますが、厭世者の彼らの書物など、当時は誰にも興味を持たれなかったと想像します。
第二に、二人とも世の無常感の権化です。「徒然草」の全段に兼好の無常観が表現されています。
衝撃的な記載があります。「恋しき物、枯れたる葵」の部分です。
葵は、私が過去フェイスブック上にこの花の写真を載せたほど私も大好きな花のひとつで、春から夏にかけて見かけます。
私も花が大好きです。庭の花、林の中の花や雑草も大好きです。しかし、枯れているよりやっぱり生きている花の方が好きです。
スッとまっすぐ生育し上の方から花が枯れていくのが通例で、葵の花が枯れると茎のみ棒状になります。この枯れ木(多分、賀茂祭が終わったあとの葵かも)の棒を見て「恋しき物」と思う兼好の心境。このことを、私も頭の中では理解できますが、正直な気持ちとしては、少し引けてしまうところがあります。まだその域には到達していないからか、私はまだ本当の無常感を共有出来るレベルになっていません。
枯れた葵を見て、長明と兼好は多分同じ心境になるのでしょう。花が咲き枯れる。人間に例えれば、始まりがあり、終わりがあるという一生を、一瞬のうたかたと見る無常感いっぱいの二人の観点からみれば、葵の花も枯れた状態が恋しい物となるのは必然かもしれません。
だれでも抱く人間の揺らぎ
第三に、二人とも生身の人間の揺らぐ悩みを抱いて、それぞれの随筆を残しているように思えます。「世捨人」とは言いますが、現実の世を全て捨てたのではなく、俗世間の煩わしさから逃れ現実から距離を置いたのではないかと思います。距離を置きながらも本当は、人間や世間の営みに常に配慮していたのではないでしょうか?
その証拠の一つに兼好は、「なき人の手ならひ、絵かきすさびたる見出てたるこそ、ただその折の心地すれ」と、亡くなった人の書いた文字や慰み半分の絵を見つけると生前の時期に戻ったような心地がすると言っています。
このように、兼好は現実の人の営みなどにたくさんの焦点を与えており、我々が想像するような「世捨人」ではなかったのかもしれません。世捨て人の形を取りながらも、朝廷や武家の礼儀など、有職故実を教えて生計の糧とせざるを得なかった彼の心の葛藤と矛盾の中でゆらぎ、苦悩したものと思われます。
書いた文字や絵などは全て無常で、その無常を主張しながらもそれこそが逆に人間の生きる姿を生々しく浮き彫りにし、人間の生きる力の大切さを逆説的に言っているようにも私には受け取れます。
また、鴨長明も「方丈記」で執着を捨てることを良しと言っていますが、完全に悟りきってはいないようにもみえます。方丈でのこのスタイルの生活が良いということ自体も捨てたいと言いながらも、心のゆらぎが見える感じを受けます。ここに高僧でなく生身の人間の迷いが「方丈記」の中からも読み取れます。ゆらぐこと自体がむしろ自然なのではないでしょうか。
なるが故に私にとっては、彼も非常に魅力的な人物です。
私への示唆
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を」という「徒然草」の中序段での吉田兼好の心境は、私には、「人間普通に生きなさい」と言っているように聞こえます。
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