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人生のゆらぎ / 折々の言葉

鴨長明(方丈記)と吉田兼好(徒然草)の生き方、人間(1)

Posted on 2012-12-20

 前回、「方丈記」のことを書きました。

 「方丈記」を読んだ後、以前読んだ「徒然草」をこの1ヶ月読み直し、面白い印象を持ちました。

 吉田兼好は1283年、鴨長明よりも約100年遅く生まれています。

 鴨長明は鎌倉時代に入った頃に晩年を迎えたのに対して、吉田兼好は室町時代初期に晩年を迎えています。しかし、歴史の長い尺度でみるとほぼ同時代の人とみなしても良いのではないでしょうか。

 出自や若い頃の人生は対照的ですが、二人は日本の中世の動乱と不安の時代に生き、世の中の見方や人間に対する興味などに、ある種の共通点を持っているのではないかと思います。もちろん私見ですが、このことが非常に興味深いところです。

普通の育ちとエリート

 まず、二人が歩んだ人生背景を見てみます。

 鴨長明は1155年頃に生まれ多分1216年頃に没しています。平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた人です。

 50歳で出家し、54歳で方丈の小屋に移り住んで1212年に「方丈記」を著しています。維摩経によれば、方丈とは小さく狭くても何人でも入れる建物のことを意味しているようでコンパクトな庵です。

 長明は人生のほとんどを失業状態で過ごし、現代流に言えば経済的には貧困の状態(このことが悪いという意味ではない)にあったと想像します。

 他方、吉田兼好は現代流に言えばエリートの家系に1283年に生まれ、1352年に没しています。

 吉田神社の祠官の三男で大臣堀川氏の家臣でした。長男は叡山大僧正(今流では大学学長)、次男は六波羅探題の長(今流では警視庁総監)と言われているエリート一族で、この点では鴨長明と対照的です。

 時の天皇、後二条天皇に出仕し、天皇の皇子の親王が幼少の時代に、大臣堀川氏の指示により皇子が将来天皇というリーダーになるための「天皇になる心得」的君主論として、徒然草を最初書き始めています。官位と家の繁栄を期して熱心に仕えましたが、残念ながら天皇が27歳で亡くなり政権が変わったことによって教える相手がいなくなってしまい、現代流に言えばドロップアウトしたのです。

 彼も30歳で出家をしています。出家といっても仙人になるのではなく、当時は特権的な境遇の人もいたようです。今の時代のビジネス世界を想定して例えれば、本社から30分くらいで行ける京都の街に研究所的な庵を造り、そこの長として遇された感じと解すれば良いかと思います。

ドロップアウトと出家の身

 前半の人生環境は鴨長明のそれとはとは雲泥の差ですが、吉田兼好の歩んだ中年、晩年の人生は鴨長明と類似しているのが深く興味を引きます。「徒然草」の後半の執筆が前半と趣が違い、距離を置いて世の中を観察する随筆になっていくのはこの人生背景があるからです。

 すなわち、晩年の二人には世の中とそこで生きる人間の観察で共通点が見られます。

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