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折々の言葉 / 時代認識

方丈記―今流の読み方(1)

Posted on 2012-12-06

「ゆく河の流れは・・・」

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止まりたるためしなし。世の中にある人と住家と、またかくの如し。」で始まる方丈記は、現在の世の中にも非常に含蓄に富んだ内容を持った随筆だと思います。

 今の時代の生き方として参考になるところがあるかもしれませんので、私流の読み取り方をここに紹介します。ご存知、方丈記の紹介です。

四畳半の栖に住むにいたった鴨長明の人となり

 「方丈記」は平安時代の末期、800年前に鴨長明によって彼の晩年に書かれたものです。彼は中世の知識人とでもいえば良いでしょうか?歌人で神主の息子でした。筝、しちりき,笛、琵琶、琴など音楽も得意としていたようです。

 ところが福原遷都の2年前に父を亡くし、職もなく今流に言うと失業状態が一生のほとんどで続いた人のようで、当時かなり高い競争率であった神社の禰宜の職につこうと後鳥羽院の紹介をもらい就職活動をしたのですが、これも上手くいかなかったそうです。

 結局、彼は晩年に世を捨て僧侶となり、山の中の方丈(四畳半)の移動式でコンパクトに組立可能な小庵で隠遁生活をするようになりますが、今の時代と言わず当時にあっても少し想像を超えた居住状態の中でこの随筆を書いたといえるのではないでしょうか。

 方丈の庵を造るに至る経緯を次のように方丈記で記載しています。

 父方の祖母の家を引き継ぎ住んでいたが、これを持ちこたえられず30歳の時にその家を出て十分の一ぐらいの大きさの庵を造る。しかし、その庵は賀茂の河原付近にあり水害や盗賊回避のため引越し。40歳を過ぎた頃から自分の悪運を悟り、長明は元神主の家系なのに50歳でなんと僧侶に転向。

 出家して僧侶になる。家族もなし俸禄もなく大原山に小さな庵を作り5年住む。牛車2台でいつでも移動ができたぐらいの家財道具しかない身で、その後日野山に先ほど述べた移動式組立住宅の方丈(4.5畳)の庵を造ったと記載しています。多分バラックのような小屋ではなかったかと想像します。

 ご存知の通りこれが方丈記の題名の由来です。晩年、京から鎌倉を訪問した後、数年後この日野山の庵で方丈記を一気に書いたようです。かなり山の中ですが、春には藤の花を見、夏にはホトトギスを聞き、秋にはひぐらしの声を聞く。冬には雪を憐れむと書くほど、この草庵では風流な生活を送っていたようです。

厳しい時代背景の中で生きる人の気持ち

 「方丈記」の中で私が注目していることがあります。第一に、時代の変化に対する彼の観察眼の鋭さです。現場に密着して取材をする記者風の彼の観察眼から素晴らしい景色が浮かびます。

 23歳頃に大火災に遭い、25才頃には平重盛の治世下、世が乱れ、28歳の時に京都が竜巻に会い、29歳の時に大飢饉。世の中も京都から福原への遷都騒ぎ、33歳の時に京都に大地震が頻発、という平安時代末期の大変な時代に生きた人物です。

 皆様が生きてきた今の年代と比較してみでください。

 なんでこんなにと思うほど世の中が乱れています。自分が生きることが精いっぱいで、とても他人の不幸に対して救いの手を差し伸べられる余裕すらほとんどの人に無かったのではないかと思える無常観あふれる時代背景です。

 「方丈記」には、平安時代という400年続いたひとつの時代がガラガラと音を立てて崩壊していく様を目の当たりにし、また数々の天変地異などを経験した描写を通じてこの時代が象徴的に描かれています。個人は不安を横目で見ながらも、体制や歴史は本人と全く無関係に変な方向にどんどん動いていく様を彼自ら体で感じていることが読み取れます。まさに時代の変わり目を鋭く観察・描写しています。

 この描写を読んだ時、私にはここ10年間余のいわゆる「失われた時代」に育った最近の若者の残念な境遇や時代認識とダブって見えました

 彼らは物心ついた頃から物価が下がる、給料が下がる時代を生きてきました。時代そのものがデフレです。職がない、今日より明日が悪い、親の時代より時代がどんどん悪くなっていく、鴨長明が生きた時代は、今の時代背景の認識と共通なところがありそうです。自分を守ることすら大変な状態で、他人のことに対して主体的な責任を持ちたくても持てない、残念な時代に置かれた今の若者とダブリます。

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